あらすじ

透明な台所と、凪の海

母の背中は いつも湿った土の匂いがした
昼は泥を払い 夜は猛毒を捌く
その境界線(ライン)に 私は一度も触れられなかった

「入っちゃいけん」

鋭い包丁の音だけが 母の言葉の代わりだった
まな板に並ぶ 透き通るようなフグの身
それは 私に向けられるはずだった愛の 成れの果てのよう

八人の小姑たちの 波打つような罵声の中で
母は 静かな石像になって耐えていた
はらたぎっくめに働くその指先に
私を抱きしめるための 余力など一分も残ってはいなかった

檻のない部屋で 私は透明な鳥になった
「ポチ」と呼ばれ 首を絞められる少女を
私は 震えるほどの羨望で見つめていた
痛みさえ そこに母の体温があるのなら

殺しても殺しても 蘇る母の残像はない
ただ 凪いだ海のように 空っぽな記憶が広がるだけ

けれど 遺された古いノートの片隅に
震える筆致で描かれた 小さな小さな「花丸」を見つけたとき
閉ざされた台所の窓から 初めて風が吹き抜けた

愛がなかったのではない
愛する余裕を あの一九〇〇日に 二〇〇〇日に
すべて使い果たしてしまった人

透明だった私の輪郭に 今
母の打つ 包丁の音が 確かな鼓動を刻み始める

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アルファポリス
アルファポリス2026/03/09
  • 現在の作品透明な台所と、凪の海