あらすじ
境界線の濁流
九歳の朝 世界が割れた
アスファルトの裂け目から
記憶よりも昏(くら)い水が溢れ出し
見慣れた通学路は 音を立てて川になった
誰もがその濁流を跨いで歩く
誰もがその飛沫(しぶき)に気づかぬまま
僕だけが 岸辺に取り残され
正しさという名の乾いた土地を失った
大人になるのは 目を逸らすことだと教わった
「病」という名のラベルを貼れば
この喉元まで迫る泥水に
少しは説明がつくのだと信じたかった
パキ、と鳴る
夜の静寂(しじま)を噛み砕く音
掃除したはずの床に広がる 身に覚えのない砂
枯れ果てた観葉植物の 黒い指先
それらは僕を あちら側へと招いている
「後ろが見えない」と誰かが怯える
鏡の中の自分は もう笑い方を忘れている
脳の火花か あるいは古き呪いか
理由など 流れる水の前では無力だ
金縛りの闇の中で 影が耳を食む
呪詛はいつしか 安守歌(ララバイ)に変わり
怒りと絶望を餌にして
僕の輪郭は 夜の闇へと溶け出していく
アパートの廊下を 再び川が流れる
膝まで浸かり 僕は泳ぐように這い回る
狂気と呼ぶなら呼ぶがいい
この濁った冷たさだけが 僕の唯一の真実だ
向こう岸の光が 遠ざかっていく
救いなど どこにもなかったけれど
この歪んだ景色も 僕の一部だ
濁流を味方につけて 僕は歩く
さようなら、乾いた世界
僕は僕の絶望を 静かに生きていく