あらすじ
六年間、夫は一度も私の名前を呼ばなかった。
人前では「侯爵夫人」として隣に立つ。
社交の場では完璧な夫を演じてみせる。
暴力もない。浮気もない。
ただ、二人きりになると何も残らなかった。
寝室は初夜から別だった。
会話は領地の報告だけ。
私が三年かけて開拓した交易路も、立て直した財政も、夫の口から出る言葉はいつも同じだった。
報告は確認した、と。
仕方がないと思い続けた。
政略で嫁いだのだから当然だと。
そう言い聞かせて、六年が過ぎた。
ある日、夫の親友が屋敷に逗留した。
たった三日間だった。
その人は、私の淹れた茶を美味いと言った。
私の育てた庭を見事だと言った。
私の話に、笑ってくれた。
それだけのことだった。
それだけのことで、六年分の渇きに気づいた。
不貞を犯す前に、自分から終わらせなければならない。
私は夫の前に立ち、告げた。
離縁を申し出ます、と。
夫は初めて表情を変えた。
考え直してくれないか、と言った。
六年間一度も踏み込まなかった人が、初めて口にした感情の言葉。
それが遅すぎたのかどうか、私にはまだわからない。