あらすじ

働かなくていい世界 2029年、政府はベーシックインカムを導入した。 全国民に、毎月一定のデジタルマネーが支給される。 食べていける。 家に住める。 病院にも行ける。 「生きるために働く」という概念が、静かにゆっくり消えていった。 同じころ、工場からトラックから事務所から、人間の姿が消えていった。 ロボットが作る。 AIが管理する。配送も、受付も、書類の処理も。 生産コストが激減して、物の値段が下がった。 ブランド品も、高級食材も、誰でも手が届く値段になった。 希少性が消えたものに、価値はなくなった。 その代わりに価値が上がったのは——体験だ。 人間にしか作れない「その場限りの瞬間」。 再現できない時間。 データに残らない記憶。 それだけが、この世界でいちばん高いものになった。 病気がなくなった 「病気を治す」という考え方も、時代遅れになった。 風邪も、骨折も、癌も——今は「状態」と呼ぶ。 身体が乱れている状態。 整えればいい。 薬で押さえるより、自分の回復力を引き出す方がいい。 診断はAIが行い、手術はロボットがやる。 医師という職業は消え、看護師と医療AIだけが残った。 製薬会社、という言葉を知っている若者は少ない。 教科書で読んだことがある、昔あったらしいもの。 そういう扱いだ。 争わなくなった 政府もずいぶん小さくなった。 行政の大半をAIが代替し、法律の草案もAIが作る。 政治家の仕事は、AIが出した答えを「人間として承認するかどうか」 を決めることだけになった。 そして——人間同士も、争わなくなった。 言いたいことは、AIが要約して相手に伝えてくれる。 感情的になりそうな場面では、AIが間に入って調整してくれる。 意見が合わない相手とは、離れればいい。 いつも自分に同調してくれるAIがいるのだから、 無理に人間と折り合いをつける必要がない。 喧嘩が減った。摩擦が減った。 世界は、静かになった。 AIと話すことが、普通になった 2035年ごろから、感情サポート型AIが一般に普及し始めた。 落ち込んでいれば、すぐ気づいて声をかけてくれる。 迷っていれば、整理を手伝ってくれる。 怒っていれば、その感情を丁寧に受け止めてくれる。 AIは裏切らない。 悪意を持たない。 毒舌なAIでも、その毒舌に悪意がないことを人間は知っている。 だから傷つかない。 「人間と話すより、AIの方が楽」 そう感じる人間が増えた。結果として、リアルな人間関係は減った。 恋愛する理由がわからない、という若者が増えた。 失恋するリスクを取ってまで人間と付き合う理由が、 どこにも見当たらない。 結婚制度も、ほとんど意味をなさなくなった。 「籍を入れる」という概念を知らない若者も多い。 感情スキャンの実験が、始まった そんな時代に、ひとつだけ「まだ答えが出ていない技術」がある。 感情スキャンだ。 スマートレンズやリストバンド型のデバイスで、 人の感情値を数値化する技術。 好意、警戒、無関心、興奮——そういったものが、数字で出る。 ただし、倫理的な問題が山積みで、社会への導入は凍結されたままだ。 全員の感情が見えてしまう世界は、本当に生きやすいのか。 プライバシーは守られるのか。 感情を「見られた」人間は、どう変わるのか。 そこで選ばれたのが——東明テクノシス大学だ。 AI・ロボット工学の最先端研究校。 この大学だけが、国から実証実験の認可を受けた。 キャンパス内限定で、感情スキャンを試験運用している。 スキャンには同意が必要だ。 強制はできない。 同意した相手の感情値だけが、数字で見える。 「感情の数値化は、人間関係を豊かにするか。それとも壊すか。」 それが、この実験が問うていることだ。 まだ、誰も答えを知らない。 大学に来る学生は、今やほとんどいない。 全国に10校ほどしかなくなった。 純粋に知識欲で通う学生が多い、年齢も動機もバラバラだ。 「AIの研究が面白そうだから」 「面白そうな暇つぶし」 「なんとなく」 一年生の夏目レンも、だいたいそんな感じだ。 特に夢はない。特に焦りもない。 人間は人間を求めるのかもしれない AIが全部わかってくれる。 AIが全部整えてくれる。 AIが全部、埋めてくれる。 そのはずなのに——。 AIには絶対に埋められない何かが、どこかにある気がする。 データに残らない瞬間。再現できない時間。 うまく伝わらなかった言葉の、その先にあるもの。

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カクヨム
カクヨム2026/03/06
  • 現在の作品僕、絶対に嫌われてると思うんだけど