あらすじ
二年半、毎日同じ工房で隣にいた上司の道具箱を、備品だと思っていた。
精霊の加護が人の価値を決める世界で、加護を持たずに生まれた。 伯爵家の長女。 名前を呼ばれた記憶がほとんどない。 食卓の席はあったが、誰も目を合わせなかった。
前世にあった土木の知識だけが、唯一自分を証明できるものだった。 手間賃を貯め、国境を越え、技術で人を評価する隣国の辺境にたどり着いた。
配属先の上司は、寡黙だった。 技術の話になると声に熱がこもるのに、それ以外はほとんど口を開かない。 感情を言葉にしようとすると、三語つないだあたりで黙る。
作業台の位置がいつの間にか近くなっていた。 深夜に誰かが薬湯を置いていった。 食堂で自分の分だけ食事が取り置かれていた。
全部、上司の仕事だと思っていた。 誰に対してもそうしているのだと、疑わなかった。
百二十七通の手紙が存在することを、私はまだ知らない。 その手紙を書いた人が誰なのかも。
声にできなかった感情は、どこに届くのだろう。