あらすじ
私立楓ケ丘高等学校に通う高校一年生、片原隣子(かたはらりんこ)は、自らを平凡で、平穏な日常を謳歌するごく一般的な女子高生だと信じていた。友人との他愛ないお喋りや、季節ごとに表情を変える通学路の景色。そんな当たり前の日々に、ある日小さな違和感が混じり込む。
それは、五月の席替えで隣り合わせになったクラスメイト、多田見透(ただみとおる)の存在だった。彼は教室のどのグループにも属さず、休み時間もただ一点を凝視し続ける奇妙な少年。隣子が向けた挨拶すら、その視線を1ミリも動かすことなく淡々と受け流す。ムッとした隣子は、彼が一体何を見つめているのかを突き止めるべく、密かな「観察者の観察」を開始する。
隣子の目に映る多田見は、決して誰かに恋をしているわけではなかった。彼の瞳に宿るのは、熱を帯びた情熱ではなく、剥製を鑑定する学者のような、鋭くて無機質な観察眼。その視線の先には、いつも図書室の主のような物静かな少女、無直理澄(むじかりすみ)がいた。梅雨が深まり、通学路の紫陽花がしっとりと濡れる六月。廊下に重たい湿気がまとわりつく放課後、事態は唐突に動き出す。窓の外を凝視していた多田見が、隣子の手首を掴んで強引に連れ出したのだ。押し込まれた掃除用具入れの暗闇。そこで隣子は、多田見がずっと見つめ続けてきたものの「正体」を突きつけることになる。
階段を上る不安定な足音。絶望を纏って屋上へと消えていく無直。多田見の切迫した叫びに背中を押された隣子は、鉄の扉を蹴り開け、燃えるような夕空の下で、今まさに境界線を越えようとする彼女の細い肩を抱きとめた。そこで明かされたのは、クラスの片隅で静かに積み上げられていた孤独と、あまりに不器用な救済の形だった。