あらすじ
六歳の婚約者に髪を引っ張られて泣いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。
五十三歳の記憶。三人の子を育て上げた日々。問題児を何十人も見てきた八年間のPTA会長の経験。そのすべてが、六歳の体に流れ込んできた。
涙を拭いて顔を上げると、得意げな婚約者の隣で大人たちが笑っている。男の子は元気がいいくらいがちょうどいい、と。誰もこの子を叱らない。誰もこの子に、それは人を傷つける行為だと教えない。
このまま放っておけば、十年後にはどうなるか。前の人生で関わった子どもたちの顔が浮かんだ。叱ってくれる大人がいなかった子が、どんな大人になったか。知っている。全部知っている。
だから決めた。魔法は使えない。剣も振れない。けれど、間違いを間違いだと真正面から言う力なら、五十三年かけて手に入れた。
相手は公爵家の嫡男。こちらは格下の伯爵令嬢。しかも六歳。正面からぶつかれば潰される。それでもこの子を変えられるのは、今この場で、たぶん自分しかいない。
叱るとは何か。愛するとは何か。その答えを知ったのは、前の人生の終わり頃だった。
六歳の手で差し出したハンカチを、この子が何年先まで覚えているかは、まだわからない。