あらすじ

三千二百人の名前を覚えている女がいる。 けれどその女の名前を、夫は一度も呼ばなかった。 侯爵夫人セシリアは十二年間、領内を歩いた。 腰の曲がった鍛冶師の痛みを取り、産後の母親の手を握り、老婦人の膝を週に二度治した。 毎晩、眠る夫の頭痛を治癒した。 夫は「よく眠れた朝」としか思わなかった。 ある日、夫が言った。 代わりが見つかった、実家に戻れ、と。 セシリアは泣かなかった。 微笑んで、三千二百名分の患者台帳を後任に手渡した。 来月までに全員の顔と名前を覚えてください、と添えて。 実家の小さな診療所で再び患者を診始めた朝、一台の荷馬車が止まった。 十二年間、顔も知らなかった薬草園の主が言う。 届け先を変更する、と。 ただそれだけの一言だった。 セシリアは知らない。 届けられていた薬草の品種が、毎年変わっていたことの意味を。 注文していない希少種が、なぜ的確に届くのかを。 あの男がなぜ、診療室の棚の並びを知っていたのかを。 台帳の最初の頁には、患者番号0001が記されている。 十二年前に書いたその番号の持ち主は、彼女を捨てた夫だった。 この番号が、別の名前に書き換わる日は来るのだろうか。

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小説を読もう2026/02/28
  • 現在の作品私が十二年間、夫の代わりに治し続けた領民を、夫は一人も覚えていませんでした