あらすじ

最初に裏切ったのは、右手の小指だった。満員のホールで拍手を浴びながら、若きピアニストの〈私〉は、自分の指がわずかに遅れる瞬間を知る。その違和感はやがて現実となり、彼女は筋萎縮性側索硬化症と診断される。神経が徐々に死に、筋肉が動かなくなる進行性の難病。根治療法はなく、やがて呼吸さえも奪われる可能性がある。  指は思うように動かなくなり、階段の途中で足が止まる。夜には呼吸が浅くなり、眠ることさえ怖くなる。それでも彼女はピアノを弾き続ける。音を失うことは、自分を失うことだったからだ。  恋人は支えることを選ぶ。ボタンを留める手、転倒を抱き起こす腕、眠れぬ夜に呼吸を数える指先。愛は形を変え、恋人同士だった二人は、いつしか「支える者」と「支えられる者」へと静かに移ろっていく。それでも彼は言う。「迷惑じゃない」。彼女はその言葉に救われながらも、同時に傷つく。  やがて人工呼吸器という選択が迫られる。生きる時間を延ばすか、それとも自然に任せるか。彼女は決断を保留し、「決めない未来」を選ぶ。今日、まだ彼の手を握れること。今日、まだ息ができること。その一日を、何よりも大切に抱きしめる。  そして訪れる、音のない朝。機械の音もない静かな部屋で、彼女の呼吸は途切れる。残された彼は、彼女のいない部屋でピアノに触れる。ひとつの音が空気を震わせる。そのかすかな震えは、まだ温かい。  本作は、進行性難病の現実と、失われていく身体の中でなお残る愛の震えを描く長編小説である。命が終わっても、音は、体温は、誰かの胸の中で震え続ける。

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エブリスタ
エブリスタ2026/02/26
  • 現在の作品最後の体温