あらすじ
五島灘の海洋プラットフォームで進む〈ガレネ・プロジェクト〉。長周期波『あびき』が迫るなか、波を数字で殴る主任技術者と、海に酔う若き研究者は、八基の重力アンカーで振幅を調律する。制御不能な海に挑む技術者たちの選択と代償は、静かな潮騒から浮かび上がる副振動を抑えることができるか。
【参考文献・論文】
『Origin of the Abiki phenomenon (a kind of seiche) in Nagasaki bay.』
東京大学地震研究所津波・高潮部門 日比谷 紀之,梶浦 欣二郎
『海洋構造物 船舶海洋工学シリーズ12』
著者:飯島一博・鈴木英之・井上俊司・高木健・岡田真三他
【あとがき】
『国内初の浮体式洋上風力発電ファームが商用運転を開始』ちょうど昨日のYahoo!ニュースにも取り上げられたように、洋上風力は、ここ数年、世界的にも有望視される反面、国内外の報道ではしばしば逆風として語られてきた。トランプ政権による洋上風力からの撤退方針も、その象徴の一つだろう。それでも自分個人としては、文明がこれから獲得しうる新しいエネルギー源として、この分野にかなり大きな期待を抱いている。
『あびき』は、別途執筆中の『輪生』と同じ世界線の物語である。そのため、作中の二〇三八年には、すでに国内で核融合炉が稼働している前提を置いた。東海村の初号炉、高崎の二号炉に続き、本作では松浦火力発電所の跡地に三号炉が建設される構想とした。二〇三八年稼働という見通しは、現実の時計をかなり早送りした設定ではあるが、三菱重工の製造拠点が集まる長崎という土地を思えば、技術と産業の線から見て不自然ではないと考えている。また、原爆投下から一世紀を見据えたとき、長崎をクリーンエネルギーの象徴都市として位置づける構想は、政府広報が描きうる物語としても大きく外れてはいないだろう。
今後、世界のエネルギーをめぐる争いは、陸上資源の開発から、海上・海中の利用へと重心を移していくはずだ。その視点から資料をあたっていく過程で、長崎湾に現れる「あびき」という現象は、どうしても避けて通れない題材になった。なにより、二〇二六年現在においても、完全には理解されていない気象現象が、国内で実際に観測され続けている事実に強い驚きを覚えた。気象台の予想をもとに、長崎県内ではJRが運行を全面停止する判断を下すこともあるという。数値モデルが整ってきた時代に、こうした不確かさが残っているという点に、心を引かれたのである。
作中では、長周期の波が五島灘にたまりやすく、それが湾内で副振動として立ち上がることで「あびき」が生じる、という仮説を採用した。これは、現在の研究で有力とされている論文を土台にしたものである。海洋プラットフォームについても、メキシコ沖のThunder Horseやアドリア海のAdriatic LNGといった実在の構造物を参照し、重力アンカーの設計にはフランスのFécampで用いられている重力式基礎を手がかりとした。現実の技術と物語上とのあいだで折り合いをつけながら、形を決めていったつもりである。
「あびき」は、おおむね冬から春にかけて生じやすいとされている。本稿を読んでいる時期にも、長崎県内、とりわけ沿岸部で暮らす人びとは、この現象を意識しながら日々を過ごしているかもしれない。物語の中で描いた海と設備はあくまで架空だが、そのうしろには、地続きの生活がある。読者が本作を通じて、あびきという名の揺らぎと、その周囲にある技術や地域の営みに、少しでも関心を向けてくれたら、作者としてこれ以上に喜ばしいことはない。