あらすじ
白昼堂々、ひとりの青年の手に持つ短剣で、とある帝国の皇帝が殺された。
青年の手が、贅肉の付いた皇帝の腹に突き立てられるまで、僅か数秒。
青年の鮮やかな身のこなしに、皇帝を守護する者たちは彼の動きに対応できなかった。
皇帝暗殺を成し遂げた青年だったが、その様子はどこかおかしかった。
しばらくの間、彼は身動き一つせず、その場に立ちつくしていたのだ。
その表情には成功の余韻に浸っているような感じは見られない。
むしろ、自らの行動を悔やんでいるような感じさえあった。
まるで、予定とは違う動きをしてしまった、と後悔しているかのように。
やがて、青年は自分を見つめている一人の女性に向けて告げた。
「き、君がアイツに……あの汚らしい手をした暴君に、君が汚されるのが嫌だと思ったから……」
その後まもなく、青年は胸を押さえて気を失うのだった。
青年は何を考えていたのだろうか?
どうして、彼は国家元首たる皇帝の暗殺を企てたのか?
彼は単独で皇帝暗殺を計画したのだろうか?
それとも協力者がいたのであろうか?
そして、彼が気を失う直前に声をかけた女性は、いったい何者だったのだろうか?
それらの謎を探るためには、時を遡り、青年の動向を回想してみる必要があるだろう。
そう、十五歳の成人を迎えて間もない青年ルキヌスが、不思議な夢を見てしまったところから……。
これは、彫像のように表情の変化に乏しい青年が、皇帝暗殺を遂げるまでの、謎に満ちた物語。
以下、はじめに登場人物の紹介。
ルキヌス
主人公。男性。十五歳(作中世界の基準で成人済み)。
父から受けた教育の影響で表情の変化に乏しい。
肩までかかる長さの金髪のために、一見して女性と見紛う程に美しい容姿の持ち主。
心臓に持病を抱えており、その持病に悩まされぬよう常に護符を首にかけている。
マルクス
ルキヌスの兄。二五歳。
テュルセニア帝国の軍団長に史上最年少で就任した人物。
父が盲信する教えに反発し、楽観的な思考で日々を過ごすのが正しいと信じている。
カーラ
女性。年齢不詳(外見上は十五歳前後)。
偶発的なイベントの最中に、ルキヌスの前に姿を見せる。
周囲の人々からは普通の人間と認識されているようだが、ルキヌスの目には……。
腰まで届く長さのブロンドの髪とすらりとした長い脚の持ち主。
なお、その正体は……。
カトゥルス
男性。年齢不詳(外見上は二五歳前後)。
偶発的に生じた、とあるイベントにてルキヌスと対面する。
口調は粗野で遠慮がなく、それが人を傷つけるだろうことに気付いていない。
続いて、作中に登場する固有名詞および設定の説明。
テュルセニア帝国
ルキヌスたちが居住する国。帝都はアウソニア。
建国当初の王制、次に共和制を経て、作中の時代には皇帝独裁制に移行している。
名称の元ネタは、古代ギリシア人が古代イタリアに居住していた民族「エトルリア人」を呼称する際に用いた「テュルセノイ人」。
国自体の元ネタは、古代地中海の覇権を握り、後の西洋世界に多大な影響を与えた「ローマ帝国」。
ダマルティア人
テュルセニア帝国とはリーン河で境を接して居住している人々。
テュルセニア人からは蛮族として認知されている。
名称の元ネタは、アドリア海沿岸一帯を指す「ダルマチア」。
民族的な元ネタは、「ローマ帝国」を長らく悩ませた民族「ゲルマン人」。
なお、境界線に定められているリーン河の元ネタは、欧州の様々な国の国境を流れている「ライン河」である。
『禁欲派』
テュルセニア帝国の上流層で流行している思想。
己の感情を律し、また感情を表に出さずに日々を過ごすことで心の平静を得られると信じ、そうすることで病気の罹患や過ちを遠ざけ、その結果として幸福な生を享受できる、という主張を思想の根本としている。
元ネタは、古代ギリシア・ローマ世界で流行していた「ストア派」。
『快楽派』
テュルセニア帝国の下層民の間で流行している思想。
『禁欲派』のように厳格に己を律する生活する態度を非難し、今日という一日を懸命に、しかし楽観的に生きるべし、という主張を思想の根幹としている。
元ネタは、古代ギリシア・ローマ世界で流行していた「エピクロス派」。
『狂気』
テュルセニア語で「マニアー」と発音する。
特定の感情に人が囚われ続けたり、または特定の強烈な感情に影響された者が、正常な精神状態ではいられなくなる場合を指す言葉である。
例①:怒りに囚われ続けた者が、手当たり次第に周辺の物に当たり散らす
例②:自然災害に見舞われ、強い恐怖に見舞われた人が現れると、その周囲の人々も同じ恐怖に襲われる
テュルセニア帝国に暮らす『禁欲派』の信奉者たちは、『狂気』に駆られた人を、たとえその人が身内などの親しい者でろうとも見下す傾向にある。
元ネタは、古代ギリシアの哲学者プラトンの著書『パイドロス』に表れる現象の『狂気』。