あらすじ
令和七年冬、老朽化により解体が決まった北区・森下家の屋根裏から、佳織は一組の古い版木を発見する。表には江戸末期の浮世絵師・歌川広重による「飛鳥山桜景」、裏には昭和初期の軍服姿の男の肖像が彫られていた。異なる時代が背中合わせに刻まれたその板に、佳織は不穏な違和感を覚える。
古書店〈佐伯堂〉の店主・佐伯、広重研究の第一人者・木嶋、そして新聞記者・本庄とともに調査を進める中、版木は戦前の北東京に存在した「滝野川版画研究所」によって再利用された可能性が浮上する。さらに、裏面の肖像は公的記録から抹消された陸軍将官の姿であり、版木そのものが軍需関係者の間で贈答品として流通していた“鍵”であることが判明する。
やがて、版木を狙う謎のブローカー・岸本が現れ、森下家の蔵が荒らされる。岸本は戦後の文化財密売に関わった祖父の記憶を継ぎ、「鍵は開けるだけでなく、閉めるためにもある」と語る。版木の縁には極小の金属片が埋め込まれており、そこには旧陸軍被服廠地下倉庫の構造図が焼き付けられていた。
三人は赤羽台の旧給水塔跡に向かい、地下に眠る倉庫跡へと潜入する。そこには空の棚と、文化財の保管目録だけが残されていた。目録には「広重 飛鳥山之図(未刷/変版)」の記載と、“国外移送”の痕跡が。版木は、戦後の混乱の中で本物と贋作の境界を揺るがす“鍵”として使われていたのだ。
物語は、記録されなかった肖像、語られなかった地下倉庫、そして空白の目録を通じて、「記録がないというのも、一つの記録だ」という言葉に収束する。広重の桜が描いた春と、軍服の男が刻んだ影――その両面を抱えた版木は、今もなお、歴史の扉を静かに叩いている。