あらすじ
冬の終わり、東京の会社帰り。古道具屋のショーケースで淡い緑の石に触れた瞬間、ホタルは足元を失い、ルノワーズ王国の鉱山町ジェイドホロウの石畳に落ちた。煤の匂いと金属音。行き場のない彼女を支え、袖の泥まで拭ったのは、落ちた紙屑を見逃さない清掃騎士団長オックスだった。
役所の書類に名も帰る場所も書けず、ホタルが埋めたのは「掃除は得意」の一行だけ。その一言で任されたのが、夜に窓が開き、廊下に足音が響く古い屋敷「月影館」。床板は抜け、台所は焦げ、物置には錆びた鍵。ホタルは雑巾とほうきで整え、住みついた子どもたちの枕を揃え、走ろうとする足を「滑るよ」と笑って止める。
月の欠け方で口調が鋭くなる魔導書係ビジルは、怖さで手が止まるときの呼吸法を教え、オックスとは掃除の速さを張り合って子どもに囃される。料理人マルゲンは段取り帳で手順を揃え、学者デニソンは「放置された不安が呪いを育てる」と屋敷の癖を解く。埃の精霊がくしゃみし、雑巾が歌い、ありがとうの紙片が壁の冷たさをほどいていく。
足音の正体は、追い出された記憶が残した影だった。満月の夜、ムーンジェイドの指輪で“元の世界へ戻る道”を開けると知り、ホタルの胸は揺れる。影は、拭いた床と揃った靴と、言い過ぎた言葉を深呼吸で戻す夜のたびに薄れていった。満月前、オックスは磨き直した指輪を差し出し、喉を詰まらせながら「ここで一緒に暮らしたい」と告げた。子どもたちは息をのみ、ビジルは戸口で呼吸を数える。ホタルは涙を拭き、「ここを選ぶ」と応える。月影館のきしみは、もう恐怖ではなく、暮らしの返事になっていた。