あらすじ
世界から色が消えていく。そんな感覚だった。
深夜二時、オフィスビルの窓を叩く雨音だけが、耳元でやけに大きく響いている。
佐藤健一(さとう けんいち)、三十四歳。職業、システムエンジニア。
一週間で合計十時間も寝ていない体は、すでに限界を超えていた。
「……あと、少し……」
キーボードを叩く指先が、自分のものとは思えないほど冷たい。
画面に並ぶ無機質なコードの列が、ゆらゆらと陽炎のように揺れた。
健一の人生は、常に「効率」と「合理性」に追われていた。
幼い頃から本を読むことが好きだったが、成長するにつれて「役に立たない知識」を切り捨て、「金になる技術」だけを詰め込んだ。その結果が、この窓のない部屋での孤独な労働だ。
ふと、胸の奥を鋭い痛みが突き抜けた。
「あ……」
心臓が、ひどく不規則な鼓動を刻む。
デスクから崩れ落ちる際、倒れたマグカップから冷めたコーヒーが溢れ出し、積み上げられた専門書を汚した。
視界が急速に狭まっていく。
(もっと、本を読みたかったな……)
最後に浮かんだのは、そんな場違いな後悔だった。
効率のためではなく、ただ知的好奇心を満たすためだけに、古今東西の物語や、失われた歴史や、魔法のような空想に浸りたかった。
意識が暗転する。
雨の音も、街の喧騒も、絶え間ない心痛も、すべてが深い海の底へと沈んでいった。