あらすじ
~口は恋煩いの元~
笹岡笑美(ささおか えみ)、三十歳。
朝の満員電車。
車内はいつも通り、湿った空気と無言の疲労で満ちている。
その中で、笑美はマスクの下で必死に口を閉じていた。
(……今の、言いたい)
(絶対ツッコんだ方がええやろ、それ)
目の前では、サラリーマンがイヤホンをつけたまま、盛大に鼻をすすっている。
ズズッ、ズズズッ。
(ハンカチ使えや!)
(いや、それ以前にイヤホン外せ!)
喉まで出かかった言葉を、笑美はぐっと飲み込む。
代わりに、マスクの内側で唇を噛んだ。
──喋ったらあかん。
──喋ったら、また嫌われる。
そう自分に言い聞かせる。
笑美は、昔から喋りすぎる女だった。
小さい頃は
「口から生まれてきたんちゃう?」
「芸人より喋るやん」
そんなことを言われて育った。
自分でも分かっている。
沈黙が苦手。
間が怖い。
つい、言葉で埋めてしまう。
それでも──
高校二年のあの日までは、それが“悪いこと”だなんて思っていなかった。
(……もう、あんな思いはしたくない)
電車が駅に滑り込む。
ドアが開き、人が吐き出される。
笑美は人波に押されながら、会社へ向かう。
オフィスに着くと、同僚が声をかけてきた。
「おはよー、笹岡さん」
「……おはようございます」
声は小さく、必要最低限。
笑顔も控えめ。
(ほんまは、“今日は湿気ひどすぎて前髪終わってません?”って言いたい)
でも言わない。
仕事中もそうだ。
会議で意味不明な発言が飛び交っても、
誰かが盛大に勘違いしていても、
笑美はマスクの下で黙っている。
(ツッコんだら、場は和むのに)
(でも、うるさいって思われたら……)
昼休み、トイレの鏡の前。
マスクを外した瞬間、笑美は自分の顔を見る。
「……はぁ」
外した途端、口が勝手に動きそうになる。
(あかんあかん、喋ったらあかん)
再びマスクをつける。
──マスクは、
彼女にとって**“口止め具”**だった。
そして同時に、
恋を遠ざける壁でもあった。
その日の帰り道。
仕事帰りの夜道を歩きながら、笑美はふと立ち止まる。
「……なんでやろ」
マスクの中で、小さく呟く。
「私、何があかんのやろ」
喋らなかったら、誰とも深くならない。
喋ったら、嫌われる。
その答えが分からないまま、
笑美は街灯の下で、ぼんやり立ち尽くしていた。
──その少し先に、
彼女の人生を無駄にかき回す爺さんの店があるとも知らずに。