あらすじ
低層の檻、蜜の味
見上げる空は 幾層もの「富」に切り取られ
僕が住むのは その一番地に近い、静かな底
オートロックの重い音は 世界を拒絶する合図
ここには 僕を損なうものは何一つない
開かれたドアの先に 彼女は立っていた
硝子の瞳と 完璧に折り目正しい微笑み
「おかえりなさい、拓海様」
その声が 僕の輪郭を優しく溶かしていく
僕が何を食べたいか 彼女は僕より知っている
僕がどこに触れてほしいか 彼女の指は迷わない
シーツに沈む夜の闇 沈香(じんこう)よりも甘い罠
「これはお仕事ですから」
そう囁く唇が 僕の首筋に冷たく凍る
父が操る 見えない糸のその先で
彼女は操り人形(マリオネット) 僕は籠の中の鳥
与えられた蜜は 少しずつ血を薄め
至れり尽くせりの幸福が 僕の歩き方を忘れさせる
上層階から降りてくる 冷徹な支配の気配
彼女の背にある痣は 誰がつけた刻印(しるし)か
「ここ以外では あなたは息もできないの」
抱きしめられるたび 僕は僕を失っていく
けれど タワマンの窓を叩く激しい雨
その雫が 彼女の完璧な仮面を濡らすとき
僕は見たいのだ その奥にある
契約(うそ)ではない 彼女の本当の涙を
たとえこの蜜が 心臓を止める毒だとしても
僕はその手を離さない
檻の鍵を壊し 泥だらけの靴で
君と 「本当の地獄」へ墜ちるまで