あらすじ
「まーだだよっ!」
深い森の中に、かくれんぼをする声がこだまする。
だかその声は、子供の無邪気な声では無い。
若い大人の男の声だった。
そして、その声は全く楽しさを含んでいなかった。
涙声の混じった悲痛な叫び声であった。恐怖に震え、怯えていた。
男は息を切らせ、木々の間を走りどんどん森深くに分け入っていく——。
村の林業が完全に途絶えて人々が山を去り60年以上が過ぎた。
もう誰も人が入らなくなった深い森の奥は、人里まで10km足らずであっても未知のジャングルと化していた。街の10kmと森の10kmは、距離感が全然違う。森の10kmはその険しさにより、15Kmにも100Kmにも感覚が変わるが、決して街の10kmの距離感と同等になる事はない。常に上にある。
厚い苔が生えて歩く度に足がふかふかと沈む、まるで大地に敷かれた絨毯の上を歩いているようだ。歩き難い。だからと言って、苔の生えない場所を選べば、今度はヌルヌルと粘土質の土はぬかるみ、歩き辛い。
枝打ちをしないから、頭上は枝に覆われて、まだ昼だというのに夜のように暗い。
その闇が、追っ手から自分の身を隠してくれるようで、多少の安心感があったが——。
振り返ると深い森の入り口から差し込む遠くの光の中で、小さく軽やかに白無垢が輝いていた。まるで照明を受けて踊る、踊り子のようだ。
だがあれは、そんな可愛い物ではないのだ。
目み見える光景だけなら、今の自分と対極の目を見張る程美しい光景なのだが、今の自分のこの不幸のどん底の状況を作っているのがあれだなのだ。
男に芽生えた安心感は吹き飛んだ。
さらに森の奥に、男は分け入って行く。
「……見いつけたぁ」
深い森の中で、嬉しそうに男の耳にそう囁く若い女の声が聞こえた。
嫁の森——。
大昔山奥のその一角は、そう呼ばれていた。