あらすじ
あらすじ
延暦二十三年、唐から帰朝した僧・空海は、留学期限を待たずに戻った「闘期の罪」により、大宰府で三年もの足止めを余儀なくされていた。
大同元年、ようやく入京を許された空海は、弟子の智泉・真済と共に山陽道を東へ向かう。同道を命じられたのは、大宰府の下級官吏・秦広継。仏も経も僧侶も信じないこの男は、かつて母の死に際し、読経が何の験もなかった苦い記憶を抱えていた。
「いやね、広継殿。私ね、実は役人の方と話すの、大好きなんですよ」
饒舌で人懐こい空海に辟易する広継。だが、観世音寺で遭遇した怨霊・玄昉との対峙が、すべてを変える。
空海が唐で学んできた密教には、怨霊を「調伏」するのではなく、その心の奥底――阿頼耶識に眠る「種子」を読み解き、苦しみの核を光で照らして魂を救う力があった。
孤独に死んだ僧・玄昉。
無念のうちに果てた長屋王の遺臣。
名を奪われた鞆の浦の遊女。
理不尽な疫病に斃れた農民たち。
京へ至る道で出会う怨霊たちは、皆、生前に深い傷を負っていた。空海は真言の光で彼らを照らし、広継は官吏として人の心を繋ぎ、道を開く。
「戦えなくても――できることがある」
やがて広継は気づく。自分の中にも、母から託された「種子」が眠っていることに。
だが、怨霊たちが次々と目覚める背景には、京の都を揺るがす巨大な陰謀が蠢いていた――。
唯識思想と密教が織りなす、史上初の「識転変バトル」。
平安の世を舞台に、魂の救済を描く歴史ファンタジー、ここに開幕。
登場人物
空海(くうかい)
本作の主人公。讃岐国出身の僧侶。延暦二十三年に入唐し、わずか二年で密教の正統を継承して帰朝した。饒舌で人懐こく、食への執着も強い。しかしその目の奥には底知れぬ深さが宿る。怨霊の阿頼耶識を「求聞持明」で診断し、相手の苦しみに応じた真言で魂を救済する。「私は仏ではない。仏の光を届ける器に過ぎない」が口癖。
秦広継(はたのひろつぐ)
大宰府の史生(下級官吏)。文書の筆写や記録を担う。母の死に際して僧侶の読経が何の験もなかったことから、仏法も僧侶も信じていない。空海一行の京への同道を命じられ、渋々旅に加わる。戦う力はないが、人を見る目と、文書で道を通す実務能力を持つ。旅の中で、自らの「器」の意味を見出していく。
智泉(ちせん)
空海の甥にして弟子。十六歳で唐に同行した経験を持つ。がっしりとした体躯に鋭い目つき、修行僧というより武人のような風貌。金剛界の法を得意とし、三鈷杵を振るって怨霊の外殻を打ち砕く。空海への遠慮がなく、よく突っ込みを入れる。船に弱い。
真済(しんぜい)
空海の弟子。線が細く聡明な顔立ちの青年僧。唐には同行していないが、空海が大宰府で足止めされていると聞き、京から一人で追いかけてきた。胎蔵界の法を得意とし、「軍荼利縛」で怨霊の動きを封じ、結界を張って場を整える。冷静沈着だが、内に秘めた熱さを持つ。
藤原薬子(ふじわらのくすこ)
冒頭に登場する「名もなき少女」の成長した姿。藤原種継の娘。幼き日、父の暗殺を「自分が引き止めたせい」と思い込み、心を凍らせた。「愛すれば殺してしまう」という誓いを胸に生きる女。その誓いがやがて都を焼く炎になることを、まだ誰も知らない。
用語解説
阿頼耶識(あらやしき)
唯識思想における「心の蔵」。人が生まれてから経験したすべてが「種子」として貯蔵される、意識の最深層。
種子(しゅうじ)
阿頼耶識に蒔かれる経験の痕跡。喜び、悲しみ、怒り、恐れ――あらゆる経験が種子となり、条件が揃えば芽を出して人の心を動かす。
金剛界・胎蔵界
密教の二大曼荼羅。金剛界は智慧の力、胎蔵界は慈悲の力を象徴する。空海は両界を統合し、怨霊の核に触れる。
三密加持(さんみつかじ)
身(印を結ぶ)・口(真言を唱える)・意(心に仏を描く)の三つを同時に仏に合わせることで、仏と一体となる密教の修行法。