あらすじ
その日、私は国会議事堂の赤絨毯(あかじゅうたん)を踏みしめていたはずだった。
内閣総理大臣、神条湊(かみじょう みなと)。六十五歳。
歴代最長任期を誇り、「鉄の宰相」と恐れられた私は、野党からの不信任決議案を鼻で笑い飛ばし、壇上で演説を行っていた。無数のフラッシュ、怒号と歓声。国を動かす重圧と快感。その全てが私の血管を駆け巡っていた。
だが、視界が白く染まった瞬間、意識は唐突に断絶した。
過労か、病か、あるいは暗殺か。
最後に感じたのは、床の大理石の冷たさだけだった。
――そして。
「――おい、聞いているのか神条!」
パンッ、という乾いた音が鼓膜を叩いた。
同時に、額に走る鋭い痛み。
私はゆっくりと瞼を開けた。
目の前に広がっていたのは、重厚な議場ではない。薄汚れた緑色の黒板と、チョークの粉が舞う埃っぽい空間だった。
鼻をつくのは、高級な革靴の匂いではなく、運動後の汗と制汗スプレーが混じったような、むせ返るような青春の悪臭。
私は自分の手を見た。
シミひとつない、小さく、柔らかな手。長年愛用していた万年筆ダコも消え失せている。
「おい! チョークをぶつけられて無視とは、いい度胸だな!」
怒声が飛んできた方向を見やる。
そこに立っていたのは、安っぽいジャージを着た中年男だった。竹刀を杖のように突き、充血した目でこちらを睨みつけている。
記憶の彼方にある、懐かしくも不快な顔。
……そうだ。思い出した。
ここは私の母校、県立北中学校。そしてあの男は、数学教師の坂本だ。生徒をストレス発散の道具としか見ていない、典型的で前時代的な公務員。