あらすじ

赤羽祥一は夢の中、不思議な感覚に囚われていた。 まるで誰か別の人間の体を借りているかのような感覚。 そして、その身体から見える視点の低さから、これはおそらく子供の視点なのだろうと推測する。 その目に映る景色は、 単なる夢として片付けるには あまりにも現実的で鮮明であり、 かといって現実の光景として捉えるには、 あまりにも非現実的だった。 赤羽祥一は、陰鬱な座敷牢のような寂れた空間に佇んでいた。 そこには窓もなく、ただ分厚い鉄格子で閉ざされるだけ。 その奥に何があるのかは分からず、ただ暗闇だけが空間を支配している。 最も感覚が鋭敏になっている足先からは、 じっとりとした冷たい石畳の感触だけが伝わってきた。 赤羽祥一は込み上げてくる不快感を自覚しながら、 もう一つ、別の感情が内側から募っていることに気づいた。 それは祥一自身のものとはまったく異なる思いだった。 「たった一つだけの願い。花を見てみたい」 花。 こんな石造りの場所にあるはずがない。そう思ったのも束の間、心の声は続く。 「だから、この壁の向こう側に行ってみたい」 一体誰の訴えなのか。そう思って祥一が振り返ろうとした瞬間、何かが足にぶつかった。 咄嗟に下を見る。 祥一は息を呑んだ。 暗闇の中に、痩せ細った数人の子供たちが、膝を抱えてうずくまっていたのだ。 そして、その窪んだ眼はすべて、じっと祥一を見つめていた。 祥一が弾かれるように目を覚ました。 荒く弾む息を落ち着かせようと、胸をぎゅっと手で押さえる。 やがて視線を右に向けると、カーテンの隙間から覗く窓が見えた。 外には、まだ朝四時の寒空が広がっている。 結露した水滴が、窓を伝って耐えきれずに滴り落ちていた。 深呼吸をして、冷たい空気を肺いっぱいに押し込む。 不快な気分が、どこかへ消えていきそうだった。 ――すべて、夢だったのだ。 自分は自分であり、いつもと同じ場所にいて―― 「……!」 背筋が凍りついた。 現実にある自分を確かめようと手足を動かすと、 足先に、身に覚えのあるじっとりとした冷感が絡みついた。 思い浮ぶのは、あの部屋で踏みしめた、気持ちの悪い石畳。 慌てて身体を見やると、いつの間にか全身が脂汗で濡れている。 自分自身の感覚のおかしさに思わず笑いが込み上げてきた。 祥一はこれでもかというほど熱いシャワーを滝のように浴びた。 ベタついた身体に石鹸を二度も三度も塗りたくり、汚れを引き剥がそうと試みる。 外ではガコンガコンと、もはや平衡感覚などとうに失われた洗濯機が 御近所迷惑も顧みずに仕事を始めてしまっていた。 官僚として、お国のために人生を捧げると決めて四年以上。 二十六歳の祥一は、まだ独り身ではあるが、その生活を極めていた。 生活に余裕があるのだから、結婚するのもいいかもしれない。 実際に将来を約束されたエリート官僚・赤羽祥一という男を 世の女は放っておくことをしないだろう。 ——しかし、だ。 シャワーを止め、湯冷めしないうちに手際良くタオルで身体を拭き上げていく。 そもそも、祥一に恋愛の気がなければ話は始まらない。 いや、その感情がなかったわけではない。 むしろ自分でもはっきりと自覚をするほどに、最近までその感情に心が占領されるばかりだった。 しかし、今は違う。 今の祥一の心には冷たい木枯らしが吹き荒れるばかりで、何も残っていない。 ぽっかりと空いた穴を、冷たい空気が埋めているだけの、価値のない人間になってしまった気がしていた。 しかし、春を謳歌していた時も、冬のような孤独の中にある今も、結局はある一人の女性に心を振り回されていることには変わりはない。 風呂上がりの祥一はタオルを肩にかけたままリビングに腰を下ろし、スマホの写真フォルダを開いた。 スクロールし、目当ての写真で指を止める。 官僚のチーム全員で食事に行った時の写真だ。 そこには、ひときわ目立つ位置に座り、優しく微笑む黒髪の美人が写っていた。 祥一は瞬きもせず、その写真を見つめ続ける。 「恋愛というものがこんなにも難しいものだったなんてな。それとも、君と出会わなければ、こんな思いはしなかったのかな」 当然、画面に映る彼女からの返事はない。ただ微笑みを返すだけだ。 それでも—— 俺の中には、変わらない信念がある。 そう念じて、瞼を固く閉じる。 君と出会ったことに後悔はない。 君と出会ったことに後悔はない。 何度でも繰り返した。そして、彼女が残していった手紙をぎゅっと握りしめる。 今日は珍しく、職場に向かわなくて済む週末だ。 だが、時間に余裕があるわけではない。 むしろ、残された時間は少なかった。 祥一は弾かれるように立ち上がり、外出の支度を整えると、そのまま家を飛び出した。 突如として失踪した同僚「中野鏡花」の足取りを掴むために。

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カクヨム2025/12/21
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