あらすじ
田舎で静かに暮らしてきた娘が、初めて一人で選んだ旅先は熱海だった。温泉街、坂の多い町、観光客で賑わう駅前。どこにでもあるはずの景色は、滞在するうちに、少しずつ違和感を帯びていく。
泊まった旅館では、夜になると音が変わる。廊下を歩く足音、畳の軋み、障子の向こうの気配。誰も説明してくれないが、町には「触れてはいけないもの」「してはいけないこと」が確かに存在しているようだった。
外へ出ても安心はない。昼の温泉街は明るく、観光地として完成しているのに、道の配置や人の数、距離感が微妙に噛み合わない。気づいたときには、見慣れたはずの風景が、どこか別の場所に変わり始めている。
この町に現れる怪異は、姿を見せない。
代わりに、日常を歪ませ、判断を鈍らせ、心の隙間に入り込む。
逃げ場はあるようで、どこにもない。
理由は分からないまま、違和感だけが積み重なっていく。
これは、何かに抗う物語ではない。
気づいたときには、すでに選ばれている話だ。
読み進めるほどに、読者自身も「どこまでが安全なのか」を見失っていく。
静かで、陰湿で、息の詰まる幽霊譚。