あらすじ
湿った熱気が肌にまとわりつく夏の深夜。
四十歳・独身の冴島律は、コンビニの冷気に打たれながら、いつも通りの「何も起きない夜」を買いに行く。檸檬の缶チューハイを二本、つまみをいくつか。決済音は機械的で、まるで彼の人生そのものだった。
律は建築音響デザイナー。ホールやスタジオの残響を計算し、音を最適に「設計」する側の人間だ。
だが――自分の人生に鳴り続ける不協和音だけは、どうしても制御できない。
都心に近い分譲マンション。価格が安かった理由は「過去の水害」。
傷を抱えた建物に、完璧に見えて欠陥を抱える自分を重ね、彼は眉一つ動かさず契約した。
そして今、重厚な防音ドアを閉めれば、外界のノイズは消える。代わりに残るのは、完全な遮音と、完全な孤独だけ。
二〇二四年七月。金曜の夜。
律はふと、パリ五輪の開会式をつける。部屋の静けさが、あまりに冷たかったからだ。
画面から流れる多彩な音楽――シャンソン、アコーディオン、エレクトロ。
その一音一音に、律の身体が勝手に反応してしまう。
気づけば彼は、ギブソンのレスポールを手に取っている。アンプには繋がない。生音は乾いているのに、彼の脳内では完璧な歪みが鳴っている。
テレビのキーを瞬時に判別し、主旋律をなぞり、ハモりを乗せ、ベースラインとドラムのフィルまで組み上げる。
努力ではない。衝動でもない。
ただ「分解できてしまう」「作れてしまう」。
リビングの一角に鎮座するのは、彼の聖域であり牢獄――音楽機材のコックピット。
最上位の電子ドラム、八十八鍵のデジタルピアノ、録音用の高性能PC。
フォルダには、彼が一人で全てを演奏し積み上げた曲が、何百と眠っている。投稿すれば賞賛はつく。けれど胸を満たすのは、達成感ではなく奇妙な虚無。
――俺は、音楽が好きなわけじゃない。
律にとって音楽は「祝福」ではなく、幼少期から刻み込まれた英才教育という名の呪縛だった。
母の厳格な視線、絶対音感の定規、メトロノームの無機質な刻み。反発しても結局、音の世界から離れられない。
息をするように構造が見える才能は、情熱の居場所を奪ってしまう。
画面の向こうでは、人々が情熱に照らされて笑っている。
その眩しさが、律には痛い。自分には、人生を懸けて追いかけたいものがない。
持ち家も、仕事も、美貌も、多才さも――すべて「ただそこにある日常の部品」に過ぎない。
それでも夜は、音を連れてくる。
雨音のようなピアノのイントロ、歪んだベース、物悲しいトランペットの旋律。
作りたいのではない。浮かんでしまう。吐き出さなければ、脳が壊れてしまう。
チューハイを飲み干し、ソファに沈み、律は目を閉じる。
水害の過去を持つ土地の上、遮音の箱舟の三階で、美しき乗組員は未完の譜面を抱えたまま眠りに落ちていく。
五線譜の海に沈むように――深く、静かに。
そして彼はまだ知らない。
この“呪いの旋律”が、いつか祝福へと変わる日が来ることを。