あらすじ
その国は、鉄と蒸気の心臓で呼吸をしている。
世界の半分を支配すると謳われる島国、ブリタニア帝国。
かつて神誕歴一七三〇年に産声を上げた蒸気機関は、この国に繁栄をもたらすと同時に、空から青色を奪い去った。
見上げれば、特権階級が住まう白亜の尖塔が、煤けた雲を突き抜けて聳え立っている。
彼らは半世紀前の「大暴動」で市民が突き立てた刃をへし折り、街の「高台」を巨大な防壁で囲い込んだ。
以来、「1730年爵位継承令」という古びた羊皮紙を盾に、地上の喧騒を遮断し、穢れなき空気を独占している。
そこにあるのは、永遠に変わらぬ血統の支配と、時を止めた冷ややかな静寂だけだ。
その足元、中層の街路を行き交うのは、派手な装飾で塗り固められた「新興貴族」の馬車だ。
かつては平民だった彼らは、卓越した技術と商才で富を築き、国が用意した「安全弁」としての爵位を金で買った。
だが、その車輪は悲鳴を上げている。
頭上の塔からは「成金」と蔑みの視線を浴び、路地裏からはかつての同胞である市民の、嫉妬と憎悪に満ちた泥が投げつけられる。
あまりに早すぎた「革新」は『平和』の名の下に摘み取られ、飼い殺された技術だけが、この歪な安寧を支えている。
上にも行けず、下にも戻れない。
金メッキの紋章は、油と煤で汚れるばかりだ。
そして視線をさらに落とせば――そこは、錆びついた配管が血管のように張り巡らされた、蒸気の迷宮。
かつての革命で「権利」を勝ち取ろうとし、そして敗北した市民たちの末裔が、変わらぬ貧困と、肺を焼くスモッグの中で喘いでいる。
街を断ち切る黒い防壁には、半世紀前の傷跡が、今も生々しく刻まれている。
回らない歯車。
機能不全の安全弁。
「進歩」という名の動力を失い、一世紀以上も更新されないボイラーは、膨れ上がる不満の圧力で、今にも破裂しそうだ。
栄光ある帝国。
その実体は、古い油と煤、そして欺瞞にまみれ、緩やかな死へと向かう巨大な廃工場に過ぎない。
神誕歴一八九〇年、春。
そんな黄昏の都、ラインディーンの片隅。
分厚い霧の向こう側で、一つの物語が幕を開ける。
それは、世界を救う英雄の物語ではない。
ただ、この薄汚れた街で、泥とオイルにまみれて生きる、小さな探偵事務所の記録である。