あらすじ
都会の生活に疲れた大学生の「僕」は、雨の日にだけひっそりと開く小さな食堂〈雫箱〉に通っている。
繁華街の外れ、傾いたアパートの一階。看板はない。ただ暖簾に濡れた雫の跡がついているだけだ。
店主の雨野は、若いのにどこか古びた雰囲気をまとった料理人で、メニューは一種類。その日の雨量や湿度、風の方向によって味を変える「雨粒の粥」だ。
あまりに優しい味に、僕は少しずつ心を開いていく。
一方、僕の家庭では母の認知症が進み、父は介護疲れで荒れていた。
家族の崩れゆく日常と、僕自身の孤独と焦燥。それらが積み上がるたびに、僕は〈雫箱〉の料理へ逃げ込むようになっていった。
雨野は僕を、客というよりも「壊れそうな器物」のように扱った。必要な分だけ修繕し、余計なことには触れない。
その距離感は、救いであり、同時に不気味な慰めだった。
だがある日、店は突然閉まる。三日後、再び開いた店で出された料理は、確かに美味しいのに、どこか焦げついた苦みが混じっていた。
雨野の手は震え、視線は泳ぎ、
「味がぶれると、人もぶれるんです」
と曖昧に言った。その後も店は不規則に開き、料理の味は日ごとに不安定になっていく。
そして雨の強い夜、店には折りたたみ傘とレシピノート、それから雨野の声だけが残されていた。
彼はかつて東京の人気料理人だったが、精神的に不安定だった親友・相沢を支えるうちに、自分自身が壊れ、料理の味も壊れ、人間関係さえ壊したと語る。相沢は大雨の日に忽然と姿を消し、川で遺体となって見つかった。以来、雨の日にしか料理が作れなくなったのだと。
僕は傘とレシピを手に、雨の中を歩き出す。かすかに和らいだ雨音が、傘の内側から微かに響く。それはまるで、料理人が最後に残した調味料のようだった。
雨は降り続く。傘の下で、僕は母の介護と父の疲れ、そして自分自身のこれからに向き合おうとする。
——味は変わる。人も変わる。それでも、歩くことは捨てられない。