あらすじ
晩夏の畦道。若い雄のカマキリは、風下から流れてくる「匂いの筋」に導かれ、腹の重い雌を見つける。外灯の白が揺れ、羽虫が輪を描く夜、雄は草の面を一枚ずつ渡り、距離を詰めようとするが、雌の前脚に弾かれて落ちる。傷は浅い。彼は離れず、匂いの筋だけを複眼の奥に固定し、別の雄が跳ね返されて去るのを見届けながら、なお同じ高さに身を置く。小さな獲物を捕らえて差し出しても、雌は視線をよこすだけで受け取らない。「近づけない距離」は残ったまま、夜は更けていく。
やがて雄は理解する。獲物よりも確実に雌の栄養になるものは、自分の温度と脂そのものだと。彼は体勢を整え、掴まれやすい角度で沈み、逃げない姿勢を選ぶ。明け方前、雌の前脚が閉じ、顎が迷いなく進む。痛みは立たず、圧と温度だけが増す。外の音と光は薄膜の向こうへ退き、雄の「私」は雌の腹の内側の湿りへと移り変わっていく。ほどなく雌は茎を上り、白い泡を吐き出し、卵鞘(らんしょう)が朝の風に硬さを帯びる。雄の栄養はその内部の細い命の線に混ざり、名もなく、声もなく、「合う側」へと定着する。失恋は拒絶のまま終わるが、彼は「好きな相手の糧になる」という唯一の到達に身を委ね、終わりと始まりが音を持たずに並ぶ「食べられる朝」が訪れる。