あらすじ
病室で点滴の音と冷蔵庫の唸りの「間」に呼吸を合わせる私は、指が覚える玄関の鍵の感触――回さず、わずかに「戻る」小さな振動――から、出会いと結婚、そして日々の細部を回想する。
彼女は「普通はさ」を合図に、皿をテーブルの角へ二センチ単位で揃え、カーテンの開け幅、既読と返信の間隔、椅子の角度まで生活を等間隔に整える。私は適応し、欠けたマグをそっと隠すなど、痛まない程度の逸脱で呼吸を保つが、遅れた連絡や抜けた履歴は即座に指摘され、言葉を減らすことで濁りを避ける術だけが身につく。
雨のワイパー、社食の音、ウィンカーの明滅――世界のリズムは均され、私の内側だけが削れていく。ある夜、トートに着替えと歯ブラシを詰め、玄関で合鍵を差し込むが、電子レンジの「ピッ」を幻のように聞いてしまい、回さず手を離す。鍵は小さく「戻り」、決定しない決定がまた一つ積み重なる。
いちどだけ白いカードに線を引くが、書き出しの言葉は現れない。病室で私は「もしもあの時――付き合わなければ、結婚しなければ、別れを言えたなら」と列挙しながら、それらを言葉ではなく、グラスの水位、ボールペンの引っかかり、食卓の角、合鍵の歯といった物の像へ並べ直す。
やがて唸りがふっと落ちる無音の間に、手のひらで「戻る音」を聴き、その言い訳のない重さの上に呼吸をそっと置く。破局も告発もないまま、生活の規律という静かな暴力と、それを回さずに受け入れてきた自分の責任が、静かに確定していく物語。