あらすじ

湾の町で育った「私」は、伯父に教わり一本だけの名なき月壜を拵える。雲母粉と米糊で極薄の膜〈雲幕〉を作り、送風塔の上昇気流に乗せて空の一角を磨く。盃売りの娘が水面の震えで合図し、私は息の拍に合わせて壜の口を月へ向ける。白い縁がかすかにふくらむ一拍で、本物の月は壜に収まり、空には〈偽月〉が座した。人々は月見に酔い、誰も差し替えに気づかない。 だが二晩目、町の拍子はわずかに狂う。パンの発酵は外れ、井戸の桶はひと口ぶん重く、溜池の中心に円い静止が生まれる。壜の中の白は私の胸の拍を借り、川守の老女は「帰りたい匂い」が濃くなったと告げる。橋(仕掛け)を介さず道だけで返せ、と。 私は三晩目の偽月を捨て、社で言葉を使わぬ返礼に臨む。栓を緩めると、白は音もなく空へ「帰り」、偽月の薄い皮膜を破って本来の厚みを取り戻した。盃売りの娘は目を閉じ、老女は一歩退いて膝を折る。伯父は黙って背で許す。 以後、月壜は名も栓もなく、盗むためではなく町に生じる微小な歪み――遅れすぎた鐘の余白や行きすぎた風の裾――を拭う器となる。本物は見えないところに宿り、礼と責任が世界の重みを支える。盗むことの甘さと返すことの難しさ、そのあわいに息を合わせ直す純文学幻想譚。

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エブリスタ
エブリスタ2025/10/23
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