あらすじ
時が止まった桜の木の下で再会した二人。
記憶と約束が交わる春、失われた時間が動き出す――。
春が来るたびに、尚吾の心には同じ景色がよみがえる。
小高い丘に一本だけ残された古い桜。その枝には、ある年の春から“時が止まった”ような沈黙が宿っている。花びらは揺れるのに音がしない。鳥も風もその木を避け、世界の方が息を潜めているようだった。
あの日、尚吾はそこで千草瑠璃と出会った。
高校の入学式の朝、彼女は古びたベンチに腰かけ、落ちてくる花びらを数えていた。その日から、ふたりは同じ道を歩くようになった。
瑠璃は人の記憶に敏感だった。
誰かが忘れた言葉や消えた約束を拾ってはノートに書き留め、「春の声」「風のかたち」と題をつけていた。尚吾はその最後のページに「君が笑った日」という文字を見つけた。
三月十一日。満開の桜の下でふたりは最後の約束を交わす。
「この桜が咲く日に、また会おう」
その言葉を残して、瑠璃は姿を消した。
年月が過ぎ、尚吾は都会で働く。
けれど春風に触れるたび、彼の時計の針は止まる。
ある日、校舎の裏で一冊のノートを拾う。表紙は破れ、見覚えのある筆跡が記されていた。
――「時が止まった桜の木の下で、もう一度あなたを見つける」
その瞬間から世界が軋み、音が遠のいた。時間がわずかに遅れて流れはじめ、彼は丘へ向かう。
桜はあの日のまま、淡い光を帯びて咲いていた。
その根元に、瑠璃が立っていた。
「久しぶり。間に合ったね」
触れれば消えてしまいそうな姿、それでも温かい。
――時間が止まるということは、失うことではない。
誰かの想いが世界を包むほど強く、やさしい瞬間。
瑠璃は言う。「記憶は残らない。でも、感じることは消えない」
そして彼の胸にノートを押し当てた。
「もう一度書いて。あなたの言葉で、私を残して」
桜の花びらが舞う中で、尚吾は新しいページを開く。
そこに綴られるのは、失われた時間ではなく、これから始まる季節の言葉。
――桜の名のもとに、春はふたたび始まる。