あらすじ
にごりえ
雨上がり、路地に浅い川ができる。
ネオンが落とした色だけが、澄んでいる。
指紋のついたグラス、氷が鳴ると、
今日がまた薄く割れていく。
わたしは笑う。
粉の匂いのするファンデをのせ、
レモンを絞った指先で、
誰かの夜の温度を量る。
——名前は茉莉、でもここでは莉子。
あなたは来る。
作業着の袖に油の線、
小さな子の寝息をポケットにしまって、
「君は光だ」と言う。
その言葉は甘く、重く、
帰り道の橋で湿る。
台所では、冷めた味噌汁がもう一度あたたまる。
電子レンジのビープが二度鳴り、
沈黙が湯気になって立ちのぼる。
手荒れのひびに、塩がしみる。
——それでも、朝は弁当箱を埋める。
古書店の紙は、海藻みたいにやわらかい匂い。
一葉の頁をめくるたび、
濁りは、誰のものでもないと知る。
水は器で形を変え、
川は濁ったまま、光を抱いて流れる。
救いではない、寄り添いを。
答えではない、傘を。
「雨が降れば、傘をさせばよい」
濡れることを責めず、
乾くまでの時間を分け合うだけ。
夜行バスの空調が肌を撫でる。
シートのビニールは小さく軋み、
窓の外、黒い海がときどき白くほどける。
未送信の言葉は、
送られないまま、誰かの喉に灯る。
ねえ、濁りよ。
わたしたちの指先、息、まなざし、
すべてを曇らせたのち、
どうか少しだけ澄ませてくれ。
透きとおるためではなく、
すすむために。
明け方、最初の新聞のざらつき。
パン屋の香り。
瓶の牛乳が鳴る低い音。
世界は少し重く、でも運べる重さでできている。
歩こう。
グラスを磨く布の手触りのままに。
川沿いの風の冷たさのままに。
濁りを抱えた手で、
濁りのある光を、渡していくために。