あらすじ
世界は満ち欠けを繰り返すのに、主人公の目にだけ月はいつも満ちている。夕方の台所、指の幅だけ開けた窓から冷えた空気が入り、皿の黄身や瓶の口、排水口の輪――身の回りの円が静かに呼応する。下の階の子どもは「三日月だ」と言い、通りすがりの年配は「今日は細いねえ」と笑う。主人公は短く相づちを打ちながらも、視線は満ちた円に留め、呼吸を四拍で回して体の内側の律を整える。黄身は揺れて戻り、やかんの鈍い輪は光って消える。世界は変わり続け、彼の円だけがそこにある。
川べりには観月会の貼り紙。暦上は「半月」だが、主人公は鉛筆で小さな丸を重ね、紙のへこみに触れて確かめる。夕闇が降り、人が集い、子どもが空の欠けを指さす。屋台に並ぶ団子の白、湯気の細い筋、すすきの揺れ、列車の窓の四角い列――すべてが流れ、ほどけ、形を変える。彼は飲まず、語らず、紙皿の円を折りたたむ音の軽さに頷く。家に戻れば、暦のその日の枠にまた小さな丸を重ねる。丸はひとつずつ増えるが、形は変わらない。呼吸の四拍は胸の中心で円となり、外界の速さと自分の遅れを調停する拍になる。
明け方前、窓の隙間から白い気配が流れ込み、近所の声は「今日は隠れたね」「細いね」と交わる。主人公の視界にはなお満月が淡く残る。ポケットの紙片に描いた小円を指でなぞり、にじむ黒鉛の抵抗で時間を測る。台所で卵を割り、黄身を箸でそっと刺すと、丸は崩れて透明が滲む。崩れるものと崩れないものが同時に在ることを、彼はその湯気の帯と窓の向こうの白い輪郭で受け入れる。外へ出れば、植え込みの影は短く、人々の歩みは早い。主人公は歩幅を半歩だけ縮め、他人の影とぶつからない拍で進む。窓は指の幅のまま、家の内と外に細い通い路を保ったまま。世界は世界の速度で変わり続け、彼の月は満ちたまま変わらない。彼は二つの時間を同時に携え、胸の奥で回る「満月の拍」を自分の時刻として、日へと歩み出す。