あらすじ
朝の各駅停車、三両目の真ん中。主人公は、吊革の輪の向こうで指先だけを微かに動かして立つ女性に目を奪われる。名も職も知らない。彼が守るのは「近づきすぎない」というささやかな礼で、視界の端から彼女の戻り方や息の抑え方、立つ位置の一定さを覚えていく。乗換駅では彼は左の階段、彼女は右のエスカレーターへ。雨の夕方には窓越しに横顔を見かけ、晴れの朝には靴紐の結び目の変わらなさに安堵する。見えない日が続いても、彼は声を整え、もし目が合えば会釈だけにとどめると決める。季節は夏の入口へ。白い薄手のシャツに変わった彼女の指の血管までが美しく見えるが、彼は距離を縮めない。やがて金曜の夕方、いつもより手前の駅で彼女を見つけたとき、背の高い男が駆け寄り、二人は迷いのない角度で腕を絡め、別の車両へ吸い込まれていく。彼は追わない。追わないこともまた礼だと知っているからだ。ホームの風の中で小さく確かめる――恋は始まる前に終わった、と。苦い缶を一口だけ飲み、家に戻り、翌朝も同じ位置に立つ。失うことで世界の輪郭が静かに整う、通勤電車の余白に宿る失恋の記録。