あらすじ
海辺の町で暮らす「わたし」は、通学堤で友だちと「五呼吸」を合わせて一日を始める。海の戻り音とブイの鈴は合図、息をそろえる所作だけが「ここにいる」を確かめてくれる。学校には服装・更衣・呼び方・保体の別メニューが掲示され、保健室の資料も整うが、点呼で呼ばれる名と身体のずれは消えない。胸ポケットには小さな髪留め、机には空白の名札台紙。放課後、自販機の前で「あの人」と交わす短い言葉と冷たい水滴が、微かな幸福の具体として貯まっていく。友だちと進学の地図をひらき、都会へ行く意思を静かに重ねる一方、教室では落とした封筒から「通称」の気配が広がり、空気が刃になる。担任の制止と友だちの立ち位置がその刃を鈍らせ、雨の堤で「わたし」は初めて自分の呼び名を小さく発する。母は白いタオルと「書くよ」の所作で応える。やがて出席時の呼び方が調整され、検診は番号で進み、仕切りが立つ。配慮は「誰にでもよい」形で置かれ、重たくない確かさになる。友だちと都会のキャンパスを見学し、五呼吸は町の外でも揃うと知る。戻り音は遠くても届く。夜、名札台紙の中央はまだ空白だが、空白は呼吸をする余白になった。堤に立ち、五つ数え、海と胸の面をそろえる。「ここにいる。行く。わたしを続ける。」――潮目の町で育てた小さな合図が、呼び名の外側に未来の輪郭を与えていく物語。