あらすじ
朝の市場。氷の白、金属の唸り、塩と鉄の匂いの層を読み取る「私」は、ひげ根と皮膚で世界を測る。鱗は星図のように並び、冷蔵列の白帯が視界を区切る。私は人の歩幅を写し取って列に紛れ、胸に監視の赤点を感じながら、指の幅の隙を見つけて身をすり抜けさせる。名も速度も付与しないまま、白い小骨を舌で転がし、匂いの地図を胸の裏に巻いて一日を進む。
雨の気配が濃くなる午後、コインランドリーで私は「人の顔」の持ち方を試す。曇ったガラスが輪郭を遅れて返し、他人の手つきを模写するうち、差し出されたパンの一片に短い礼で応える。やがて雨粒の匂いが合図となり、四肢の記憶が戻る。橋の下で排水の温度を喉で測り、明日の地図に線を増やす。
均質に明るいスーパーでは、天井の目が赤点となって私を追う。通路の幅は錯覚で縮み、私は呼吸を折り畳みながら、白い結束バンドや金属扉の隙に目印を置く。触れず、止まらず、ただ遅れと先回りの差だけで抜けていく。
白くて匂いのない「部屋」で名を問われたとき、私の舌は塩で貼りつき、答えは形にならない。換気口の冷気に混じる魚箱の微かな匂いを拾い、骨の角度を薄くし、机と椅子の暗がりへ滑り落ちる。雨上がりの外気で影から影へ移り、川の欄干の冷えで姿勢を正す。小さな骨を一本、そこに置く。意味は与えない。夜は速度を持たず、赤点は届かない。丸い目が暗さを受け取り、匂いの地図だけが私の居場所を確かめる。
監視が敷く均一な「白」の下で、感覚の地図を頼りに、自分の名と速度を拒みつつ世界を通過していく存在の、閾(しきい)と変身の物語。