あらすじ

頭の中に、ぽっかりと穴が空いている。昨日の午後三時から五時までの二時間。僕はその記憶を、二万クレジットで売った。 窓の外では、相変わらず酸性雨がアスファルトを叩いている。高層ビルの隙間から漏れるけばけばしいネオンが、雨粒に乱反射して部屋の壁に歪んだ虹色の模様を描き出していた。僕、相馬レンの職業はメモリー・ブローカー。他人の記憶の価値を査定し、市場での取引を仲介する。そして時々、自分の記憶を切り売りして糊口をしのぐ。昨日の二時間も、その「時々」だった。 クライアントとの退屈な打ち合わせ。手元のデータパッドに表示される価格変動グラフと、相手の口から吐き出されるありきたりの世間話。そんな無価値な時間の断片は、記憶市場では「ブランク・メモリー」として一定の需要がある。他人の記憶を上書きするための、いわばまっさらなキャンバスだ。二万クレジット。この街で一週間生きるには十分な額だ。 コーヒーメーカーが電子音を立て、濁った液体をカップに注ぐ。その味気ない香りが鼻をついた時、ドアのブザーが鳴った。来客の予定はない。警戒しながらインターコムのモニターを覗くと、硬い表情をした女が立っていた。レインコートが濡れて体に張り付いている。背後には、同じくコート姿の男が二人。 「公安局、刑事課の霧島だ。相馬レンだな」 モニター越しの声は、雨音に負けないくらい冷たく、鋭利だった。ドアを開けると、湿った空気と共に霧島アカリと名乗った女が部屋に踏み込んできた。年は僕と同じくらいだろうか。切り揃えられた黒髪と、一切の感情を読み取らせない瞳が印象的だ。 「何の御用で? 刑事さんが、しがないブローカーに」 僕の軽口を、彼女は無視した。「昨日、午後三時から五時。どこで何をしていた?」 「さあ。覚えていない」 「覚えていない?」霧島は眉をひそめた。 「ええ。その時間帯の記憶は、昨夜のうちに売却済みです。メモリー・バンクのログを確認すればすぐに分かりますよ」 僕は肩をすくめてみせた。この街では、記憶がないことはアリバイにならない。むしろ、疑いを深める材料にしかならない。彼女もそれを承知しているはずだ。 「ログは確認した。あんたが記憶を売った相手は、ヤマシロ・タケシ。あんたの長年の取引相手だな」 「ヤマシロが……どうかしたんですか」 「昨夜、死体で発見された」 霧島の言葉は、ナイフのように僕の意識に突き刺さった。 「ヤマシロは、自分のオフィスで殺されていた。死亡推定時刻は、昨日の午後四時前後。あんたが記憶を売った、まさにその時間だ」 部屋の空気が凍りついた。コーヒーの香りも、雨音も、遠のいていく。 「現場には、あんたの痕跡が多数残っていた。指紋、毛髪、それに監視カメラには、午後三時過ぎにあんたがビルに入り、五時過ぎに出ていく姿がはっきりと記録されている」 「……冗談でしょう」 「残念ながら、事実だ」 霧島は一歩近づき、僕の目をまっすぐに見据えた。「相馬レン。我々はあんたを、ヤマシロ・タケシ殺害の第一容疑者と見なしている」 頭の中の空白が、突然重みを増した。ただの穴ではなかった。それは、僕を奈落に引きずり込むための、底なしの暗黒だった。僕にはアリバイがない。犯行時間帯の記憶が、僕自身の手で消去されてしまっている。 「ヤマシロが買い取った僕の記憶を見れば、無実だと分かるはずだ」 「プライバシー保護法は知っているな? 令状があっても、売買された記憶の内容そのものを警察が閲覧することはできない。あんたもブローカーなら常識だろう」 彼女の言葉は正論だった。記憶市場を支える大原則だ。そして今、その原則が僕の首を絞めている。 「僕は殺していない」 「なら、証明してみせろ。その空っぽの頭でな」霧島は冷たく言い放った。「任意で同行してもらう。署で詳しく話を聞かせてもらおうか」 背後の男たちが、無言で僕の両脇に立った。 僕は自分が殺人者なのかもしれない、という可能性を考えた。激昂して、誰かを殺す。そして、その罪悪感から逃れるために記憶を売る。ありえない話ではない。この街では、誰もがそうやって過去を清算している。だが、違う。僕に限ってそれはない。記憶はただの商品だ。そこに感傷を持ち込む趣味はない。 だとすれば、これは罠だ。僕を犯人に仕立て上げようとする、誰かの巧妙な罠。 連行される途中、僕は霧島に尋ねた。 「一つだけ教えてほしい。僕が売った記憶の買い手は、本当にヤマシロ本人だったんですか?」 「売買ログには、ヤマシロの個人アカウントが記録されている。間違いなく本人だ」 そうか、と僕は心の中で呟いた。だが、腑に落ちない。ヤマシロとの打ち合わせは、いつも無機質なものだった。だが、昨日の売買オファーのメッセージは、いつにも増して定型的で、まるでテンプレートを貼り付けたような文面だった。あの時の小さな違和感を、僕は見過ごしていた。 パトカーの窓から、ネオンに照らされた街が流れていく。人々は他人の記憶を買い、偽りの体験に酔いしれている。この街では、真実さえ金で買える。かつて霧島のような刑事が吐き捨てた言葉を思い出す。 結構だ。ならば僕も、自分のやり方で真実を買い戻してやろう。失われた二時間。僕の記憶の中に隠された殺人事件の真相を。ブローカーの知識とコネを総動員して、この「記憶の密室」から抜け出す方法を、僕は思考し始めていた。僕の無実を証明する鍵は、僕が売ってしまった記憶の中にしかないのだから。

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カクヨム
カクヨム2025/10/30
  • 現在の作品二万クレジットの不在証明