あらすじ
ペットショップの水槽で暮らすウーパールーパーの「ぼく」は、斜め前の彼女とえら房の揺れや喉の拍をそろえ、底砂を四本の前肢と五本の後肢でゆっくり踏みながら一日の光をやり過ごしている。開店前の冷え、濾過の唸り、泡の列――ふたりは並ぶことでだけ生まれる「重み」を共有する。だがある朝、網は迷わず彼女を囲い、カップ、透明な袋、酸素、ねじられた口金、紙袋、ドアベルの高い音へと連なる一連の動きで、彼女は外へ運び去られる。残された水には、ぬめりの半月と「音程が半音下がる」濾過の唸りだけが残る。
やがて新しい個体が入るが、並びは作れても重みは戻らない。背面ガラスに残る売約札の糊跡の曇りと冷えは、「ここにないことの形」としてぼくの体に触れ、記憶と事実を重ねないために拍を一つ抜く術を学ばせる。待つ拍は短くなり、待たない拍が増えても安定は壊れない。
配置換えで、ぼくは裏のラック水槽に移される。光は弱く、唸りは低く一定で、えら房は静かに開閉を続ける。隣は空のまま、しかしただの空ではない。黒い背面が隣まで続き、重みのないことが黒の深さで確かめられる。彼女の記憶は角度として来ては並び直され、向かう角度ではなく「向かわない角度」へと変わる。ぼくは空気をひと口だけ呑み、光を探さない泡が割れずに漂うのを見届ける。空を埋めず、空の隣を空のまま保つ――失われたものを奪い返さず、不在を不在の形で抱えることでしか得られない静かな秩序に、ぼくは体を合わせていく。眠りではない休息の中、呼吸だけが正確に続く。