あらすじ
古いアパートの窓辺にミントの鉢。路地を生きる雄の野良猫「ぼく」は、そこで彼女と出会う。皿の音、石けんと紙と朝の水の匂い、額を撫でる指先。ガラスは匂いを通し、体は通さない。通う日々、彼女の小さなギター、笑いの甘い匂い。贈り物にと置いたセミは遠ざけられ、もらうものとあげるものは交わらないことを知る。梅雨、捕獲器の金属の匂いと「ごめんね」。手術ののち右耳が欠け、白い発泡の外小屋が置かれる。「外でいこうね」。やさしさの冷たさに身を丸め、秋冬を越える。窓の向こうの箸の音、誰かの影、数日の不在と帰還の蜂蜜のような笑い。やがて春、段ボールの擦れる気配。彼女は外小屋に札を結び「お隣さんが見る」と告げ、額に口づけて去る。窓は灯らず、空っぽの匂いだけが残る。ぼくは札の場所で餌を受けとりつつ、夜は旧い庭へ戻り、藍の糸とミントの匂いを巣に運ぶ。これは失恋だ、と人の言葉を借りて思う。ぼくの声はガラスを越えないが、匂いは境を越えて戻ってくる。失う恋ではなく、外側で続ける恋として胸に抱き、四角い光の縁から縁へ、ひげで風を測りながら歩き出す。