あらすじ
春の朝、保育園の玄関に満ちる木の匂い。三歳の椿は、しゃがむと自分の目の高さに降りてくれる先生の白いひざ、みかんの香りのする手に心を奪われる。歌、のりの工作、砂場のケーキづくり。床に落ちる四角い光と、その中を泳ぐほこりの金魚。おやつのビスケットは、半分をこっそりポケットへ──甘さは胸のなかに小さな風船を膨らませ、時々しょっぱさと混じる。
やがて、先生がだれかの靴ひもを結び、別の子の絵をほめるたび、椿は呼ばないまま見つめることを覚える。連絡帳の紙には「来月引っ越し、結婚します」。母はそれを「初恋の失恋」と名づける。椿は「おめでとう」を練習し、黄色い折り紙に割ったビスケットを包み、園の隅で三つ葉のクローバーを一枚選ぶ(四つ葉は見つからない)。
別れの前日、窓の光はやわらかく縮み、影は長くのびる。最終日、椿は列のいちばん後ろで順番を待ち、「けっこん、おめでとう」と言って包みと三つ葉を渡す。先生は名札のひよこに小さな黄色いシールを貼り、手を握り返す。みかんの匂いが手の線に残り、椿は胸のなかでだけ「さよなら、ぼくの、せんせい」と言う。
帰り道、ポケットは空でも指先に甘さが残る。匂いは消えても歩き方に変わり、歩幅は少しだけ長くなる。夜、ひよこの丸い光を指でたしかめながら眠りへ落ちる。溶けていく砂糖菓子のように、椿の最初の失恋は、痛みと甘さをゆっくりと彼の明日へとかえていく。