あらすじ
海辺の小さな町には、「半影が厚いとき月は身ごもる」という古い掟がある。空の産婆を務める語り手は、白布に塩の星図を刷き、十六の小瓶を同じ高さで吊るし、黒曜石の刃を整えて三夜の礼に臨む。助手の弥生は生まれるものに名を与えたがるが、産婆は言う──「名は路を曲げる。呼べば立ち止まる」。町は灯を控え、「見ない・覗かない・返す道だけ覚えよ」と息を揃える。
二夜めの真ん中、乳のような海霧が布にほどけ、見えない臍の銀糸が塩粒を順に光らせて路となる。産婆は呼吸の拍に合わせ、光ではなく影の糸だけを黒曜石で断つ。風が一瞬逆流し、音なき産声が町の底を震わせる。母月はわずかに痩せ、新しい輪郭が空に返る。誰も見上げない。呼ばないから、路はまっすぐ立つ。
語り手には十年前の過失がある。禁を破り目を上げかけ、町に風路の乱れを招いた悔恨だ。今回は名を与えず、見ず、ただ返すことで贖う。儀礼のあと、小瓶の水位は均しく下がり、一本だけを空にして「欠けの座」とし、弥生に託す──名ではなく道標として。
やぐらは解体され、すすきは供え直され、言葉は薄紙の下にしまわれる。夜が戻るたび、二つめの月影は胸だけが察し、彼女たちはなお見ない。忘れることは消すことではない。見えないものほど確かだと知りながら、町は節約された音で朝を迎える。礼は終わり、また始まる。