あらすじ
幕末、日本は存亡の危機にあった。
黒船来航に揺れ、開国か攘夷かで割れる諸藩、列強の圧力、そして倒幕を目指す薩摩と長州。三百年の徳川幕府はもはや揺らぎ、時代は激動の渦に飲み込まれていた。
そんな中で第十五代将軍に就いたのが、一橋家から迎えられた徳川慶喜である。幼少より「神童」と呼ばれた彼は、冷静な眼差しと抜群の才覚をもって時代を読み、西洋式軍制の導入、鉄道や電信の整備といった近代化の仕掛けを矢継ぎ早に進めた。さらに大胆にも、政権を朝廷へ返上する「大政奉還」を断行し、武力衝突を避けようとした。
──トップに立つ者が衰退の兆しを前にして何も考えないはずがない。慶喜もまた、次の時代を見据えて数々の布石を打っていた。だが、時代の流れは容赦なく彼を追い詰めていく。
薩長は王政復古の大号令を掲げ、幕府の存在そのものを否定した。鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗北し、慶喜は大阪城を去り、江戸へ退いた。その決断は江戸百万の民を戦火から救ったが、世の記憶に残ったのは「逃げた将軍」という烙印であった。
やがて江戸城は無血で開かれ、西郷隆盛と勝海舟の名が美談として後世に語られる。慶喜の名は影の中にかすむ。しかし、近代日本を形づくる鉄道も電信も軍制改革も、彼が仕掛けた種から芽吹いたものだった。成果はすべて「明治政府の功績」とされ、慶喜自身のものにはならなかった。
──いざ発動しようとしたときに交代劇が起こり、次代のトップがその果実を手にしてしまう。
この物語は、そんな苦い経験を味わったことのある人々にこそ刺さる。慶喜は敗者であると同時に、成果を次代に託した「影の仕掛け人」だった。
駿府に隠棲した慶喜は、趣味に生きる一方で、夜ごと「もし自分が主役として立っていたなら」という幻の未来を思い描いた。大政奉還が計算通りに機能していれば。鳥羽伏見で勝利していれば。日本はもっと早く近代国家としての歩みを始めていたかもしれない──。
それでも彼は声に出さなかった。未来を託す役目はすでに終わったと悟り、ただ静かに光の外に退いたのである。
『主役になれなかった将軍 ―徳川慶喜の選択―』
主役を奪われ、成果を自分のものにできずとも、未来への橋を架けた一人の将軍の物語。
「もしもの日本」を胸に抱きつつ、影に徹した男の選択が、いま再び語り直される。