あらすじ
黄昏の調律
マチネの拍手が
木の壁に沈みきるころ、
客席の影は長く伸びて、
鍵盤は雨上がりの石畳みたいに静まる。
私はハンマーで、あなたは言葉で、
それぞれの音程を確かめる。
——音は帰る場所を探している、
あなたがそう言った日から、私の胸は玄関になった。
時差の端で届く長文、
夜の東京と朝の砂漠が
同じ一段落に並ぶ不思議。
返事の送信ボタンは、小さな扉の蝶番。
削除フォルダに落ちた言葉は、
まだ温かいまま暗くなる。
「届かなかった沈黙」の形を撫でて、
私は耳鳴りの輪郭を覚える。
痛むのは音じゃない、
強すぎるものだけが刺さるのだと
教えてくれた前奏曲《残響前夜》。
紙より薄い希望が五線に灯る。
停電のホール、
蝋燭は拍のように揺れ、
あなたは高音の角を落として、
私の痛みが入れない部屋をつくる。
舞台袖の白い養生布、
客席中央に置かれたアップライト、
鍵盤一本ぶんの勇気で、
世界はもう少し優しく調律される。
サーバールームの冷気のなかで見つけた
真相のログは、赦しを連れてこない。
それでも私は言う——
返してほしいのは、時間だけ。
夜が終われば、朝の調律。
台風一過の河原で、
透明な傘に残る水が
最後の不協和を流していく。
「同じ曲を弾くんじゃない」
あなたは微笑む。
「同じ調で、生きていこう」
その一言が、私のハ長調になる。
遠くの鐘が二人の耳に違う時刻を告げても、
私たちは同じ余韻を選べる。
黄昏の端で始まった音は、
今、朝の真ん中に帰っていく。