あらすじ
元来、夏休みは幻覚である。
終業式の日。
校長先生の長ったらしい話が終わり、それから生徒指導の教員が「夏休み中の諸注意」などと題して、わかりきった事柄ばかりを勿体つけて喋っている時…
その時、俺たちは狂っている。
「酔っている」と言い換えてもいい。
あの日の俺たちに満ち溢れる感傷。
それは、「浮かれている」などという月並みな表現でなく、やはり「狂っている」「酔っている」としか、それ以外に言い表しようのないものだろう。
祝祭の始まりなのだ。
日常が壊れ、非日常が始まる。規範が崩壊して、それらから解放される。
俺たちは、学校へ行かなくていい。どこへ行ってもいい。何時に起きてもいい。何時に寝てもいい。
それが公然と承認される、祝祭。
夏休みという祝祭。その訪れに俺たちは酔い、狂っている。
毎年のように俺たちはそれを繰り返す。
終業式が訪れるたび、決まって俺たちはその陶酔に包まれる。
だが、実のところ…夏休みとはそんなふうにたいしたものではない。
たとえば、映画や漫画に描かれるようなドラマチックな夏休み。
そんなものは、ほとんどの場合において訪れない。
それまでの日常が一旦ストップして期間限定の別な日常が始まる。
結局はそれだけの話なのだ。
学校へ行く必要がなくなったところで、家にいる時間が増えるだけだ。
俺たちは夏休みの大半を無駄に浪費する。
あるいは夏期講習、親戚連中の集まりのような下らないイベントに費やす。
気づけば二学期の直前になっていて、それでも俺たちは相も変わらず、無駄に日々を浪費していく。
いつの間にか二学期が訪れる。重い足取りで学校へ行き、本当はやるのが面倒だっただけの宿題を「やってはいるけど家に忘れた」と言って有耶無耶にする。
結局のところ、俺たちが幻覚を見ていられるのは終業式の日だけなのだ。
それでも俺たちは夏休みに惹かれる。
夏休みなんてたいしたことはないとわかっているはずなのに、毎年のように懲りもせず酔う。
まるでここから1ヶ月、本当に輝かしい日々が俺たちを待っているのだとでも言うかのように。
その理由は、きっと至極単純なものだろう。
日常の崩壊。
俺たちは往々にして日常の崩壊を求める。自分の身辺に危害が及ばない範囲で。
たとえば、
自分の居住地から離れた場所に津波警報が出たり。
「隕石が落ちて世界が滅亡する」なんていう明らかに嘘っぱちの流言が飛び交ったり。
そういう時、俺たちは酔う。
それらは全て非日常であり、まさしく祝祭に他ならないからだ。
そして…とりもなおさず、夏休みは崩壊した日常の象徴である。
だから俺たちは毎年、ありもしない夏休みに幻想を抱き、その幻想に酔っているのだろう。
そうやって、精神に異常をきたした人が幻覚や幻聴を覚えるように…俺たちは、夏休みという幻覚を見ている。
毎年毎年、懲りもせずに夏が来るたび。