あらすじ

オンラインの指先 ― 茨木1981

湿った紙幣の鉄が肺に沈む朝
ドットプリンタが壁の呼吸を刻み
カーソルが緑の闇でまばたきをやめない

指先は鍵のかたち
キーの角は冷たい歯
押しこめば世界が一度だけ傾き
音のしない蝶番が開く

制服の脇に溜まる塩の匂い
床ワックスの刺す匂い
紙粉が舌に降り
コーヒーの焦げが喉ぼとけで止まる

封筒は薄い皮膚
角はやわらぎ
中の鉛筆書きは毛羽立つ
——今夜、決めよう
言葉は梅の種のように喉で鳴り
飲み込めば胸の奥が少し冷たくなる

蛍光灯は低く唸り
誰の顔も白く漂白される
誰の視線もこちらへ来ない
匿名のざわめきは
いちばん安全な覆面だった

午前十時二十九分
唇に残る鉄の味を噛みつぶし
「歯が痛い」と申送りに点を打つ
小さな点が
戻れない線へと伸びていく

タタタタ
紙幣の綴りは軽い脈
印鑑の朱は熱を帯び
画面の数字は水槽の魚のように
指の都合で群れを変える
匂いのない盲点を縫うように

午前十時三十分
早退届の上で呼吸を細く
キーに落ちる指——カチ
皮膚の裏で小さな雷が走り
耳の奥で海が近くなる

受話器は消毒液の冷たさ
コインのカランはささやき
遠くても近くても同じ温度の声が
耳介の影でほどけ
夜の窓に貼りつく

搭乗口は甘い冷房
パスポートのインクが湿る匂い
舌の上のコーヒーはもう味をやめ
機内の酸素は薄く乾き
肘掛けの金属が手首の骨を冷やす

公海上
手錠の輪は氷水の指
窓の外は黒い板
言葉は出ない
代わりに鼓動が数を数える
——ゼロ、壱、ゼロ、壱
数字だけがまだこちらの味方でいる

新聞インクは朝の手に移り
見出しは唇を濁す
好きな人のために、という言葉は
砂糖菓子の外側だけ甘く
中は空洞で
奥歯に触れるたび
小さく割れてゆく

法廷の木は乾いた甘さ
扇子の風は動かない汗を撫で
読み上げられる数字は
夏の午後を瞬間冷凍にする
胸の内側で
未送信のログだけが熱を持つ

夜
端末の画面を閉じたあとも
緑の余韻が瞼の裏で点滅する
鍵穴の暗さだけが残り
指はもう鍵のかたちを忘れ始める

昭和五十六年の茨木の朝の匂い
湿った紙幣、床の蝋、みかんの薄皮
あのブザーが壁を震わせる音
そのすべてが
ひとつのクリックにたたまれて
今も指先のどこかで
微かに鳴っている

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アルファポリス
アルファポリス2025/08/18
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