あらすじ
――もう、あのバーはない。
東京の片隅に、知る人ぞ知る小さな店があった。
その名は「RAIN」。黒い壁に囲まれた、カウンター七席だけの静かなバー。
まるで街の喧騒から切り離された、洞窟のような空間だった。
店主は、雨沢夕子という女性。
多くを語らず、愛想笑いも浮かべない。けれど、彼女が差し出す一杯には、どこか人の心をほどく温度があった。
たとえばギムレットの冷たさに滲む優しさ。あるいは、ブルーキュラソーの奥に沈む、彼女自身の孤独。
私も、あの店の常連のひとりだった。
決まった曜日に足を運び、決まった場所に腰を下ろし、何かを話すでもなくグラスを傾けていた。
他の客たちも皆、無口で、どこか少し傷を抱えていたように思う。
「劇的なことは、何もなかった」
でも今思えば、それこそがあの場所の特別さだったのだ。
沈黙すら心地よく、雨音すら会話のように聞こえた。
やがて「RAIN」は静かに姿を消した。
看板も残さず、惜別の挨拶もなく。
ただ、ふとした雨の夜に、思い出だけがふと立ちのぼる。
夕子さんが最後に出してくれた、あの一杯。
瑠璃色の光を宿した、名前も味も忘れられないカクテル。
『Rain Drop』――
それは、夜ごと静かに降りそそいだ、記憶のしずく。
誰かの胸に、いまもなお、静かに降り続けている。