あらすじ
景司は幼いころから「こわい顔」と呼ばれてきた。眉間の皺、鋭い目つき、強張った口元——笑顔さえも誤解され、周囲に避けられる日々を過ごした。けれど心は優しく、花を植え、猫を抱き、風の中で誰にも見られず人に手を差し伸べる少年だった。
青年となり、倉庫で働き始めても、人相のせいで距離を置かれる日々が続く。それでも、けがをした同僚や、隅にうずくまる猫に、静かなやさしさを示し続けた。言葉は少なく、笑顔はない。それでも景司の声には温度があった。
出版社へ転職した景司は、文字を通じて誰かの心に触れ始める。顔ではなく声、言葉の余韻を介して人と繋がり、「怖くない」と初めて気づかれる瞬間を得る。春のチューリップが咲くたび、景司は幼いころの記憶を胸に、人に名を問われぬまま、やさしさを置いていく。
そして、彼の存在は少しずつ、人の記憶の中に「春のような人」として息づいてゆく。名前も笑顔もなくても、人の温度は風となり、静かに隣に咲いているのだった。