あらすじ
ひょっとしたら作品の理解の手助けになるかもしれないので、ずっと前に内語について考えたことを以下に引用してみる。
ふだん一人でものを考えるときに黙って考える人とぶつぶつ呟きながら考える人がいる。もちろん誰でも場合によって、両方を適宜使い分けるてるんだろうけど、ぼくはあまりぶつぶつ言わないタイプのように思う。
そんなことを言うとぼくの周りの人は「いや、おまえはけっこうぶつぶつ言ってるぞ」と言うかもしれないが、それは違う。その証拠にこれを書いている間、ぼくは黙っているから。でも、頭の中では何か言っているし、だからこそこうやって文章にできるのだろう。これを内語(あるいは内言語)という。この内語は発声される言語、書かれる言語の順で発展してきた言語とはちょっと違うもののようにぼくは思う。
内語について話を進める前に、ぶつぶつの呟きについて簡単に触れておこう。呟きは「口偏に玄妙」と書くように奥深く意味深な言葉だと思われてきたのだろう。玄武、神秘的な黒の声ということかもしれない。ぼんやりと聞いている人に意識とその下にあるものの隙間に忍び込む声。
旧約聖書によればバベルの塔を築こうとして人類はいろんな言葉に分断されてしまったんだそうだ。古代ユダヤ民族は人類は元々は同じ言語をしゃべっていたと考えていたわけだ。
そこで内語は実は日本語などの特定の言語ではなく、バベルの塔以前の古層の言葉だと考えたらどうだろうか? 発語したり、文字に書いたりする瞬間に日本語なり、英語になるけれど、内語は実はそれらとは違ったぼんやりした、なつかしいような言語。
内語、呟き、語り、それらは海と浜辺と川が入り混じる潟(ラグーン)や汽水湖のようなものかもしれない。そこには我々の祖先が陸地に進出した頃の仲間が今も豊かに棲息しているだろう。
結論めいたことを言うと、神様は人々の内語だけを聴いている。いや、内語しか聞こえない。これをいいことだと考える人もいるだろうし、おそろしいことだと考える人もいるだろう。意味が不鮮明で聞き取りにくい歌詞の方がノリがいいというのと少し似ているかもしれない。あるいは恐山のイタコがどの国の人間であってもあの辺りの方言で口寄せしていることに思い当たる人もいるだろう。