あらすじ

兄は都内の市役所で働いていたが結婚し、同時に岩手の町役場への異動を言い渡された。兄妻は異動が決まると辞職し、兄について行った。引っ越しから二か月後、兄失踪の連絡を受けた。自室の机上には「六年前の自分を探してきます」と置手紙があった。私と両親は兄夫妻の住む岩手を訪れた。兄不在の集合体には冷ややかな空気が充満した。三日間ホテルに泊まったが警察から連絡はなく、体調不安定な両親は西東京に帰り、私一人が残った。もう戻ってこないかもと思った頃、兄の帰宅を告げる連絡があった。どこに行っていたのだと詰め寄る私達に対し、兄は六年前の自分が岩手の山奥にいると確信し歩き回っていたと言い張った。「取り調べ」が終わると兄は解放され、それ以上追求されることはなかった。兄は大学時代にカメラマン助手のバイトをしておりそのまま山岳カメラマンになると思っていたが、大学卒業と共に都内市役所の職員になった。私が大学近くで一人暮らしを始めると、兄から遊びにいってもいいかと連絡があった。最近見つけた安くてうまい中華料理屋へ連れて行くと伝えると、兄は嬉しそうに笑った。店に着くと兄はビールを一気に開け失踪時のことを話し出した。結婚後、気持ちが不安定になった。結婚は純粋に嬉しかったが新しい環境への不安やプレッシャーが押し寄せてきた。その時期から兄は一つの妄想にも似た思い込みに捕らわれていたという。『この場所から遠く離れた日本のどこかに六年前の自分がいる』と。順調な人生、安定した人生を客観的に見ると自分の人生が外堀から埋まっていくという閉塞感に苛まれた。六年の歳月を巻き戻すため八幡平に入ったのは異動してからちょうど二か月目の日だった。八幡平の山奥で山頂近くの木道にテントを張り、一週間以上無心に写真を撮り続けているとファインダーの先に六年前に失った思いが映し出された。山に入ったのは六月で、その頃は山頂付近では雪解けが始まっていた。山頂付近の沼の一つである鏡沼の周りを散策していた時、熱心にファインダーを覗いている青年がいた。青年は兄によく似た青年がいたという。青年を見たのは沼の氷が貫通した日だった。早朝の鏡沼はいつのまにか靄で充満され兄は鬱蒼とした幻想的な景色に目を奪われ、その時、山はいいですねと耳元で青年の声が聞こえた。振り返るとそこに青年はいなかった。あれは六年前の自分が異形の姿で目前に現れたとのだと兄は言った。

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エブリスタ2022/07/18
  • 現在の作品六年前の男