あらすじ
会社を辞め、心が折れかけていた僕は、姉の紹介で、遠縁にあたる能楽師・山本先生の家に住み込むことになった。正式な弟子ではないけれど、家事や猫の世話をしながら、静かな日々を送っている。
——その日までは。
ダイニングに置かれていた桐箱。その中には、《小鍛冶》という能の演目で使われる「白色尉(はくしきじょう)」の能面が納められていた。白く、老いた神のようなその面を、先生は「使わない」とだけ言って、ただ置いておいた。
けれどその日から、日常の空気が少しずつ変わり始める。
姉の友人であり、若手の女性能楽師・八重野薫。彼女の抱える異変と不安。
そして、沈黙とともに何かを“謡い”続ける、先生自身の変化。
「能楽師を潰していいのは、人じゃない」
先生がそう言って見つめたのは、あの白い能面だった。
やがて迎えた舞台本番の日——
幻想的な演目『小鍛冶』の中で、山本先生の《いつもと違う》地謡が響いた瞬間、舞台上の所作が、空気が、観ている“何か”が確かに変わった。
これは、「語らず響く」面(おもて)と、それをめぐる猫と先生と僕の、静かな物語。