あらすじ
工場勤めの中年男・景司は、三月の出替わり月になるたび、無言で赤線が引かれる名簿に何かしら胸をつかれる。始業三十分前に必ず現れる几帳面な彼は、若手の手を黙って貸し、仕事に余計な声を加えない。ある日、所長から新工程の参加を打診されるが、景司は即答できずに帰宅する。妻の澄子は察して言葉少なに茶を淹れた。
かつての友人山辺の畑に足を向けた景司は、そこで「必要とされる」に囚われる自分を見つける。辞退を決意した彼は、若手・林への技術継承に力を注ぎ、「手の中に宿る春」を語り始める。自らの引き際を見極め、桜の風の中で工場を去ったあと、景司は町の小さな文具店で「余白帳」を手にし、新たな記録を始める。
やがて地域工房のボランティアとして、子どもたちに道具の使い方を伝えるようになった景司は、「働くとは、風の音を覚えること」だと静かに語る。春の風は通り過ぎたあとも、手の中に温もりを残していく、そんな余白と継承の物語。