あらすじ
【第一話|春の町、静かな出会い】
春のやわらかな風が吹く午後、絵美は小さな町の公民館へと足を運んだ。
東京から夫の転勤でこの町に越してきて一ヶ月。幼い子ども二人を抱えながらの新生活は慌ただしく、近所付き合いなどまだまったくなかった。
「地域に馴染むなら、まずは顔を見せることよ」
そう声をかけてくれたのは、自治会長の奥さま・香苗だった。
年齢は四十八。落ち着いた声と、どこか品のある所作。
人前が苦手な絵美は最初こそ戸惑ったが、香苗のさりげない優しさに背を押されて、地域の集会に参加することにした。
会場では十人ほどの住民が輪になって座っていた。
「新しく引っ越してきた絵美です。まだ慣れないことばかりですが、よろしくお願いします」
緊張からか、声が震えた。それでも、温かい拍手と笑顔に迎えられ、絵美は少しだけ肩の力を抜いた。
その帰り際、香苗がそっと声をかけてくれた。
「頑張ったわね。少しずつでいいのよ。焦らなくて」
その言葉に、なぜだか胸が熱くなった。
知らない土地で、知らない人々に囲まれている中で、たった一人だけ、自分の心の内を見透かされた気がしたのだ。
香苗の微笑みは、母のようで、友のようで、不思議と絵美の心に残った。
春の夕暮れ。
公民館の前で立ち止まった絵美は、ふと香苗の姿を思い出しながら、見上げた空の広さに、小さく深呼吸をした。
それはまだ、静かに咲き始めた感情の、小さな芽だった。