あらすじ
「私はある瞬間に名前を盗まれました。得体の知れない何かにです」
その時になって初めて僕は彼女の名前をまだ訊いていないことに気がついた。
いや、正確に言おう。《《彼女に名前がついているという発想自体》》が思い浮かばなかったのだ。まるで日常に存在しないはずのものが急に目の前に出現した感覚だった。そして現に今でも彼女に名前があるという事実がなぜか不自然なことであるように感じていた。
「誰一人例外はないようです。最初から私に名前がついていないような認識をしていて私自身もまた思い出すことができません。あらゆる二次元媒体からも私の名前は全て消えています。墓も家も戸籍からもです。身内の名字は認識ができなくなっています。おまけに」
彼女はなんでもないよう顔でそう言うとシャツの右袖をまくった。
そこには彼女とおそらく《《僕にだけしか》》見ることのできない右腕があった。
「現在、それは私の存在そのものを徐々に希薄にしています。いずれ近いうち私は完全に、あるいは不完全に消失するでしょう」
名前を盗まれたという女の子は少し困ったような顔をして笑った。
「幸い私の人生には生まれてこの方、未解答がありません。良いにも悪いにも可にも不可にも必ず答えを出してきました。話ができる状態でこうして草座さんにも会えたわけですし、結果がどうであれ、過程がどうであれ、空欄は埋められなくてはいけません。広がっていくよりも前に」
現実にあるはずのないものが混じる時、世界の見方は一変する。
いわく、日常に引かれた一線を越えるということは、世界の二階へ足を運ぶようなものだ。
僕は彼女の存在の在り方を取り戻すために今、その階段に足かけるーー。